2012年6月16日土曜日

「どこから行っても遠い町」に涙した


川上弘美「どこから行っても遠い町」読了。

東京の小さな商店街とそこをゆきかう人びと
との平穏な日々にある、
あやうさと幸福。
川上文学の真髄を示す
連作短編小説集。

と帯に書いてあります。


こんなみごとな連作短編集を私は読んだことがない。
読み進むにつれて次のお話は一体誰が
主人公なんだろうといぶかしさと期待がふくらむ。
そしてページをめくって行くと、そうか、ここでそう
関わって来るんだ・・・とまたページをめくる手が
早まる。
どのストーリーも秀逸です。

最後に登場するのが、最初のお話の主人公の
ずっと以前に亡くなっている奥さん。

あたしが死んでからもう、二十年以上がたちます。
あたし、春田真紀という女が、今でもこうして
生きているのは、平蔵さんと源二さんの
記憶の中に、まだあたしがいるからです。
・・・・・・・・
あたしは年々はかなくなります。
平蔵さんと源二さんは、以前ほどあたしのことを
思い出さなくなりました。
・・・・・・・・
平蔵さんが死んでも、源二さんが死んでも、
あたしのかけらは、ずっと生きる。
そういうかけらが、いくつもいくつも、
百万も千万もかさなって、わたしたちは、ある。
いつか人間がこの世から絶えてしまうまで、
あたしも、平蔵さんも、源二さんも、生きている。
この町の、今ここにいる人たちにつらなる、
だれかの記憶の奥底で。そのだれかにつらなる、
またほかのだれかの記憶の奥底で。
・・・・・・・・
生きているのはおもしろかったです。
死んでからは、もう新しいおもしろいことは
起こらないから、ちょっとつまらないけれど、
捨てたものではなかったです、あたしの人生。

で終わります。

書き写しながらも何だか涙が出そうに
なっちゃった・・・。



昨日ですが、金環日食で使った、日本で買って来た
めがねを処分しようとしていた私につれあいが、
どうして捨てるの、と。
いえ私も置いておこうかと思案してはいたのです。

○○(息子)が使うかも知れないし、
その子どもが使えるかも知れないのに。
たとえ使えなくても、あの頃はこんなめがねが
あったんだと話が出来るかも知れないじゃない、と。

その言葉に何だか切なくなってしまった私。
そんな年齢に来ているんだ、と思うとね。

それとこの「どこから行っても遠い町」の
最後のお話「ゆるく巻くかたつむりの殻」の
最後の文章たちが妙に心に沁みたのとは
きっと心の同じ部分に響いたからかも知れません。

それでも歳は取ってもいい本との出会いは
待っているものですね。


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