「日本語は日本人だけのもの?」作家・温又柔さんに聞いた
沼田真佑さんの『影裏』が選ばれた第157回芥川賞で、ある作品を巡る選考委員の選評が物議を醸した。
台湾出身の作家・温又柔さんの『真ん中の子どもたち』。日本と台湾にルーツを持つ主人公の葛藤と成長の物語で、3歳で日本に移住した温さんの経験が土台になっているという。
その作品について、選考委員の作家・宮本輝氏がこう書いていた。
私は芥川賞の候補作が年々長くなっていくことに不満を感じている。重くも軽くもないただ長いだけの刀になんの威力があろう。 その長い小説のひとつである温又柔さんの「真ん中の子どもたち」は、(中略)当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。(『文藝春秋』2017年9月号より)私は言葉を失った。「他人事」「退屈」という部分は特に。そうか、こうした悩みって「日本人」には関係なくて、つまらないものとして映るのか。
<注>ここまではこの記事を書いた朝日新聞統合編集センターの記者である安仁周(アン・インジュ)さんの文章です。
どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだ。でも第157回芥川賞某選考委員の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当時者にとっては深刻だろうが退屈だった」にはさすがに怒りが湧いた。こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね。
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昨日のハフィングポストの記事です。
宮本輝のこの選評については
全く知りませんでした。
いやあこの批評の言葉、最初っからアウトでしょ。
「重くも軽くてもないただ長いだけの刀に
なんの威力があろう。
その長い小説のひとつである‥‥」
これは失礼極まりないじゃないですか。
芥川賞の候補作が年々長くなっていこうが、
あなたはそれを読んで選考するひとです。
あなたが小説の長短を批判するのはおかしい。
「その長い小説のひとつである温又柔さんの
『真ん中のこどもたち』」
という表現は、温又柔さんの小説が、
「何の威力もない長いだけの刀」だと
言っているのと同じですよね?
これは彼女の小説を非常に蔑視した
「何の威力もない長いだけの刀」だと
言っているのと同じですよね?
これは彼女の小説を非常に蔑視した
言い方ですよね?
なんの威力もない刀と同じく
なんのインパクトもない
と批判しています。
大きく譲って、ここまではまあ
彼の個人的な感想で、
そういう見方をする人がいても
しかたがないかと。
大きく譲って、ここまではまあ
彼の個人的な感想で、
そういう見方をする人がいても
しかたがないかと。
でも「当事者たちには深刻なアイデンティティ
と向き合うテーマかもしれないが、
日本人の読み手にとっては
『対岸の火事』(『 』by Maize)であって、
同調しにくい。
なるほどそういう問題も起こるであろう
という程度で、
他人事を延々と読まされて退屈だった」
これを読んで私も安仁周さんと同じく
言葉を失いました。
「対岸の火事」「同調しにくい」「退屈」
これが作家生活40年以上にもなる作家、
芥川賞選考委員の言葉でしょうか。
今の日本にはどれだけの定住外国人がいて、
彼らの平坦ならざる日常を
このひとは一体どのくらい知っているのか。
いえ、知らなくても想像できないのか。
わからない言葉(日本語)、差別、
日本社会の中での葛藤、
そう言う外国人移民の葛藤を「他人事」
と言い切り、
「退屈」だなんて、
外国人を、日本社会の中で異質なひとたち
をばかにするにもほどがあります。
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ところで私はかつてロサンジェルスで
日本語を教えていた時から、
日本の学校の教科のひとつである
「国語」は「日本語」にした方がいいと
思っていました。
アメリカの学校で、この国で使われている
ことば(英語)を学ぶ時、
教科名はEnglishです。
この国で生まれた子供たちも、
外国から移民で来た子供たちも、
学校でEnglishを習います。
移民でやって来た大人も
アダルトスクールでEnglishを勉強します。
他のアジアの国、例えば中国や韓国で
日本でいうところの「国語」
の教科は何と表現されているのでしょう。
大辞泉で「国語」を調べたら、
1)一国の主体をなす民族が、共有し、広く
使用している言語。その国の公用語・共通語。
2)日本の言語。日本語。
と説明されています。
「国語」とは「一国の主体をなす民族が共有」
するものだから、きっと文部省が文部科学省
と名前を変えても、
教科としての名称「国語」
を変えたくないのでしょうね。
「日本語」という名詞は英語やフランス語、
スペイン語やタイ語という
客観的な言語の一つの<名称>であり、
日本における「日本語」はあくまでも
一国の主体をなす日本人のために存在する
ものであり、だから21世紀も17年も
たっても相変わらず
「国語」のままなのでしょうね。
もっと言うなら「国語」でないといけないのです。
それにしても宮本輝のこの言葉は、
現在の日本における外国人の現状に
あまりにも無知で
無慈悲なように思います。
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