2015年10月2日金曜日

母語、個人の核、思考の支柱

今日の毎日新聞の記事です


施光恒「英語化は愚民化」(集英社新書)

 幼稚園や小学校から英語を学ばせる。高校の英語の授業では英語しか使わない。大学の授業の半分を英語でやる。企業の公用語を英語にする。
 こういった極端な英語化の動きに、かねて深い違和感を持ってきた。品のない言い方をすると、アホちゃうか、という感じだ。



「英語化は愚民化」(集英社新書)

 私たちは日本語で思考している。日本語が発生してからだと数千年以上、古事記からだと1300年、明治から数えても150年。えんえんと蓄積されてきた言葉によって生活している。

心と頭と体の間を行ったり来たりする「言葉」

 大阪人の私は日本語の中でも大阪弁で物事を考える。本を読んだり、人と語り合ったり、深夜にぼんやりしたり。頭の中では、「こいつエエこと言いよる」「これはアカンわ」「ちゃうちゃう、そうとちゃう」「これはこない考えるんやろ」などと、私の言葉たちは絶えず、心と頭と体の間を行ったり来たりしながら、混沌(こんとん)として渦巻いている。そんなこと、母語以外でできるわけがない。英語では絶対にできない。正直にいうと日本語の標準語でもできないかもしれない。
ところが、この感覚をうまく言葉で表現できないでいた。新聞社にいる時に同僚と議論していて、「今どき、幼児から英語を勉強するのに反対する人はいないでしょう」と言われても、絶対に間違っていると確信しているのにもかかわらず、うまく反論できずにいた。
 世はグローバル化時代だ。英語化は大きな流れになっている。母語で考えることを徹底的に教えるべきだという私の心の底からの思いを訴えても、語学の苦手な者の遠ぼえのように聞こえる気がしたのだ。

言葉の問題を考えながら絶えず問いかける「幸せとは何か」

 「英語化は愚民化」(集英社新書)は、そんな私の思いに明快に言葉を与えてくれた。とても説得力のある本だ。言葉の問題を考えながら、日本人にとって幸せとは何かを絶えず問いかけているのが印象的だ。
 著者の施光恒(せ・てるひさ)は1971年生まれ。政治学者で九州大大学院の准教授だ。
 まず、政府の「クールジャパンムーブメント推進会議」が提言した「英語特区」構想を紹介する。公共の場の会話は英語のみに限定する。販売される本や新聞も英語媒体とするという構想だ。一方、大学の英語化も進んでいる。英語で行う講義を増やして「スーパーグローバル大学」に認定されれば、多額の補助金が付く。ビジネスや役所でも英語が第2公用語のようになる恐れがぬぐいきれない。
 日本語が日本人の知的生産の現場から追い出されようとしている。これは深刻な事態だ。
                
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ロサンジェルスにいた時、ある女のコと知り合いました。彼女はアメリカの大学で学んでいましたが、日本ではインターナショナルスクールに通っていたそうで、私にはっきりと「私日本人じゃないんです。だって日本こと何にも知らないんです」と言いました。
例えばですよ、小学校の社会科の授業で、田植えのことを習ったり、中学校では日本の歴史も習います。そういう勉強を彼女は一切していなかったのです。
今思えば彼女は一体、日本語と英語のどちらで思考していたのだろうと思います。
英語、そりゃ出来ないよりは出来た方がいいでしょう。でも昨今の日本の英語熱はもう今さら取り上げる意味もないくらい、浸透仕切っていうように感じます。
幼稚園から英語教室、小学校からの英語、英語で授業、英語が公用語の会社、企業。「今どき、幼児から英語を勉強するのに反対する人はいないでしょう」と言われて、反論できなかったというこの記事の筆者。
反論はできるでしょうが、5分やそこらで終わるものではないので、口をつぐむしかないのかも知れません。

記者が書いておられるように、私たちは日本語で思考しています。学生時代、英語をしゃべる時は英語で考えろ、などと言われたものですが、そんなこと急にできるはずはありません。英語を話しながらも頭の中は日本語で、主語だの動詞は、などと考えるからなかなかすらっと言葉が出て来ないのです。
でもそれでいいのだと私は思います。

幼児から英語を学ばせる、学ぶと言ってももちろん、そんな年齢の子どもたちには遊び感覚で英語を習わせていくのでしょう。そして小学校に上がると、今度は学校での英語の授業。とは言え、一体週に何時間教えているのか。それが中学生になった時にどの程度の功を奏するというのでしょうか。
そんなことよりことわざの1つでも教えた方が日本語の勉強になり、日本人としての教養が身につくのではないか、と私は思ったりするのですが。

日本に生まれた日本人なら頭の中の<核>となるのは日本語のはずで、その支柱がなくなったら、ある意味、日本人ではなくなるのではないか。
だから日本に生まれて日本語で育ち、日本の学校教育を受けた外国人も、頭の中は<日本人>になってしまうと言えるかも知れません。
言語と教育とはそういうものだと思います。

アメリカで暮らす日本人の子どもは、特にどちらかの親がアメリカ人、もしくは他の外国人だった場合、徹底して家庭で日本語を話し続けないことには、子どもの日本語は危ういのもになってしまいがちです。
テクニカルなことで言っても、日本語というのは、大人になって習得するのはなかなか難しい言語の1つなので、読み書きは別としても、聴く話すだけでもできれば、これは本人の能力の1つになって行くはずです。

私の息子は日本の小学校は2年生もろくに行っておらず、アメリカで小学校3年生からスタートしました。両親とも日本人だし、家の中では日本語のみ。なので日本語の聴く話すは(当たり前ですが)完璧ですが、補習校などには行かなかったので、日本の義務教育は受けておらず、学校で習う基礎的な勉強はすっぽり抜けています。
それでも日本が好きで、日本で仕事をして暮らしています。

英語を身につけさせたいがために、日本でインターナショナルスクールに行かせたり、母子でアメリカ留学をしたりするケースもあります。
子供の本当の幸せを考えているのかしら、と個人的には思います。

言葉は文化、そして思考の指針です。
何も幼い頃から<アメリカ人>を志向しなくてもいい、と私は思います。






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