2011年7月1日金曜日

藤沢周平の目線、方言、沖縄の方言札


あとがきで藤沢周平は「山伏が主人公ではない」と
書いていますが、読み終えた私には
「山伏」という存在にも非常に興味をそそられました。

「私には、方言は急速に衰弱にむかっている
という考えがあるので・・・」
とあとがきに書いているように、この小説は
すべて荘内弁で書かれています。

方言と言えば日本にいる時にNHKの
沖縄に関する番組で見た<方言札>。
学校で沖縄の方言を使ったら
方言札と書かれた札を首からぶら下げて立たされます。
次なる犠牲者が出るまで。
それで誰かが足を踏む(か何かを足の指にのせる。
少し記憶があいまいです・・・)かして
口から飛び出た方言で、交代。
みんな平常では意識しているけれど、
無防備な時の「痛っ」はつい
方言が口をついて出てしまうのです。
それで次なる犠牲者に方言札は渡されるのでした。

方言札のことを私はこの番組で初めて知りました。

東京から茨城の友人を訪ねるのに常磐線に乗り、
石岡という駅で降りました。
ちょうど下校時間だったのか、地元の
ヤンキー?高校生一団が駅前でたまっています。
男子も女子も制服でタバコを吸っているのには
(しかも駅の真隣は交番所)びっくりしましたが、
そのつっぱった男の子たちが茨城弁丸出しで
会話しているのが、私にはちょっと
微笑ましく感じられました。

言葉は命そのものです。

食べるものがあなたそのもの
<YOU ARE WHAT YOU EAT>
という表現がありますが、
話す言葉もあなたそのもののはずです。

だからリザヴェーションでもホピやナバホは
学校で自分たちの言葉を教えようとするのです。
アラスカのネイティヴたちもそうでした。

テレビのおかげで日本中が標準語化されて行く
様子をきっと藤沢周平も危惧していたのでしょう。



季節の移り変わり、村の人たちの暮らし、
自然の風景、そういったものを織り込みながら
よくこんなお話を作り上げられなあと
文才も想像力もない私はただただ感心するばかり。

最後の章には「蓑つくり」という人たちが
登場しますが、これは山に住む漂白民のこと。
山かと呼ばれる人々が
この小説の舞台である出羽三山一帯まで
来ていたことはあとの解説を読んで知りました。
そういう「箕つくり」の人たちの表現の仕方にも
あたたかさと平等さを感じます。
私などまだまだ読み足りていませんが、
そういうのが藤沢周平の作品の底に流れる
魅力なのだと思います。

時代小説でも、こういう市井の人々を描いたもの
って読んでいてほっとします。

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