2013年8月28日水曜日

どう咲きゃいいのさ、この私、傘がない、結婚しようよ

藤原新也のオフィシャルサイトでも
公開された、藤圭子の死に関する文章。
私は会員制のCATWALKのサイトで読みましたが、
藤圭子の死から考察されたその後の
日本の若者の生き方に対する彼の分析の
方に激しく共感を覚えました。

70年安保には出遅れた世代の私ですが、
それでも井上陽水の「傘がない」
にはちょっとがっくりと言うか、
そうじゃないんじゃない?と思ったものです。

社会情勢なんていいんだ、それより僕には
今彼女に会いに行くための傘がないことの
方が重要課題なんだ、という内容の歌詞に
私自身は多いに違和感を覚えたものでした。

次に藤原新也が書いていた
吉田拓郎の「結婚しようよ」。
当時、フォーク界に躍り出ていた拓郎に傾倒していた
若者は大勢いたはずですが、
ヒットチャートにのるようになってからは
(浴衣の君ぃは、とかこの、僕の髪ぃがなど)
もう<歌謡曲>でしたよね。
それも本来の日本の魂を歌う<歌謡曲>ではなく、
単に成り下がったフォークと言う意味程度の。

町の教会で、結婚しようよ、ふふふ...

まさに「ミニマリズム」。

それに失望したファンも少しはいたのでしょうか。
それともそうそう、ボクたち、私たち、
さっさとケッコンして、ニューファミリー
を形成しようと華やぐ2人の未来を夢見た
若者の方が多かったのか。



そんな歌が流行る少し前ですが、
とある繁華街である集会のビラを配っていた時に、
一番ビラを受け取ってくれないのが
自分と歳も変わらない若いカップルでした。

「世界はふたりのために」が流行ったのは
それよりまたずっと前のことでしたが、
その時私はつくづく感じたのでした。

この人たちには世界はまさにふたりだけの
ためにあって、そこにはいっさいの社会的な
不平等や他人の不条理は入り込む余地は
ないんだと。
って言うか、そんなことどうでもいいんだね、と。
フタリのためにセカイはあるんだもの。



そしてあの時からずっと変わらず流れる
日本人のある種の、自分たちの住む社会や
この世界、地球に対する距離感の取り方、
もっと言うなら距離感にすら興味のなさ、
が、今の日本の様々な問題につながっていると
感じざるを得ません。







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