2015年11月6日金曜日

キョーイク制度を破壊しろ、と彼女は言う、村上春樹の視点




ここのところ、またいじめによる自殺のニュースが
報じられています。

何で?何で?何で?



私の息子は小学校1年生の時に
学校で<かつあげ>されていました。

H県N市、古い裕福なおうちが多い、
郊外の住宅地での出来事です。

息子をかつあげしていたのも、
そんな旧家の家の子供でした。

それでも1年生は行き終え、
2年生に上がった時の担任の
女性教諭の、画一的な子供の見方と
理解のなさに息子は
登校拒否。


次の年、私たち家族はアメリカに
移住しました。



どこから書き始めたらいいのかわかりませんが、
アメリカに来て、
この国の教育、あるいは学校のあり方の
フレキシビリティを目の当たりにして、
何で日本はこういうふうにならないのか
と、特にいじめによる自殺のニュースを見る
たびに考えてしまいます。


アメリカには<ホームスクーリング>
というシステムがあります。

詳しく調べたことはありませんが、
集団生活はちょっと苦手、
という子供が家庭で学ぶシステムです。

もちろんそこから普通の学校に戻ったり、
フリースクールに通い出す子供もいます。

それからハイスクールには
オンラインパブリックハイスクールも
あって、授業料は(義務教育なのでもちろん)
無料。

例えば芸能活動をしている生徒、
集団生活は苦手、
家で一人で自分で計画を立てて単位を
取って行きたいという子供たちには
こういうチョイスもあります。


高校を卒業しないアメリカ人もかなり多いので、
ハイスクールディプロマ(高校の卒業証明書)
は、今はオンラインでも取れるみたいです。


もう1つ私がすばらしいけど当然だ
と思うシステムは、
アメリカの学校には、<呼び方>
あるいは<カテゴリー>として
日本で言う<定時制>も<通信制>も、
大学なら古くは<夜間>、
<1部>も<2部>もないということです。


アメリカの大学は(コミュニティカレッジも含めて)
朝から晩まで開いていて、
クラスが行われています。

昼間フルタイムで働いて、夜のクラスを取る
学生もたくさんいます。

彼らは<2部学生>なんて呼ばれません。


吉永小百合は早稲田の夜間を卒業していますが、
卒業証書に(おそらく)<早大2部卒業>
なんてアメリカの大学ではあり得ません。


アメリカには<社会人学生>
などという表現もありません。

いくつになっても、大学に戻れて、
<学生>になり、クラスを受けて
勉強が出来るからです。


その国で教育を受ける、学校へ行く
ということは、
とりもなおさず、その国のシステムに
取り込まれるということです。

子供、児童、生徒はそのシステムの網の中の
囚われの身になるということに他なりません。

アメリカという国が施す教育の内容はともかく、
オータナティヴのシステムが確立、
そして保証されているって、
教育を受ける側、
学校へ行く側にとっては
チョイスの幅が大きいってことです。

囚われた網の中でも、
それなりのチョイスがあるというのは
子供や生徒に多少なりとも
逃げ道が保証されているということです。


⭐️


今読んでいる村上春樹の新しいエッセイ、
「職業としての小説家」
からの抜粋です。


小学校から大学まで、
学校の勉強がそんなに得意ではなかった
と話す春樹さんですが、
(兵庫県立)神戸高校に行ってらっしゃる
くらいですから、
決して頭が悪いはずはない、
それどころか、頭はかなりいい、
という前提で聞かないといけませんが(笑)。


(抜粋)

‥‥この国の教育システムは基本的に、
個人の資質を柔軟に伸ばすことをあまり考慮
していないんじゃないかと思えてなりません。
いまだにマニュアル通りに知識を詰め込み、
受験技術を教えることに汲々としているように
見えます。

(彼は人間を命令されればその通りに動く
「犬型人格」と逆に動きたがる「猫型人格」
に分けて)

でも僕が経験してきた日本の教育システム
は、僕の目には、共同体の役に立つ
「犬型人格」をつくることを、ときには
それを超えて、団体丸ごと目的地まで
導かれる「羊的人格」をつくることを
目的としているようにさえ見えました。

そしてその傾向は教育のみならず、
会社や官僚組織を中心とした日本の社会
システムそのものにまで
及んでいるように思えます。

そしてそれは__その「数値重視」の
硬直性と、「機械暗記」的な即効性・功利性
指向は__様々な分野で深刻な
弊害を生み出しているようです。

ある時期にはそういう「功利的」システムは
たしかにうまく機能してきました。
社会全体の目的や目標がおおむね自明で
あった「行け行け」の時代には、
そういうやり方が適していたかもしれません。

しかし戦後の復興が終わり、
高度経済成長が過去のものとなり、
バブル経済が見事に破綻してしまったあと、
そういう「みんなで船団を組んで、目的地に
向かってただまっすぐ進んでいこうぜ」
的な社会システムは、その役割を
すでに終えてしまっています。
なぜなら僕らのこれからの行き先はもう、
単一の視野では捉えきれないものになって
しまっているからです。




「僕らのこれからの行き先」‥‥


あれから僕たちは
何かを信じてこれたかな
(さあ、どうだったのでしょう)

‥‥‥

あのころの未来に
ぼくらは立っているのかな
(そうは思えないけど)

‥‥‥


全てが思うほどうまくはいかないみたいだ
(たぶん、全然いってないよね)
‥‥‥

夜空のむこうにはもう明日が待っている
(どんな明日が待ってるというの?
明日が来るのがコワい)


スガシカオの「夜空ノムコウ」
を思い出してしまった私です。












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