2016年12月24日土曜日

梁石日と高村薫 









今回日本で買った本は数冊です。

新しいのは出たばかりだった、
村上春樹の短編集の文庫本と、
あとの数冊は古本。


これはブックオフで買っていますが、
三宮でだったか長野で見つけたのか
全く覚えていないんですよね(苦笑)。


今回行ったブックオフは三宮と長野
の2箇所だけ。

ブックオフってあまりそこらじゅう

にはないし、
あっても電車ではアクセス
が良くなかったりで、なかなか行けません。



この本、NHK出版から出ている古い本です。

帯には「世紀末・日本を刺激する!」
と書かれていますが、刺激される
というよりは
深い思索に向かわされる内容でした。


これは初版で、出版された日付は
1998年12月24日。

まさに今からちょうど18年前です。


私は梁石日の「血と骨」も読んで
いないのですが、
梁石日が高村薫と親子ほど年が違ったとは
知りませんでした。

梁石日は昭和一桁生まれだったんですね。

何となくもっと若いと思っていました。

きっと若々しく見えていたのでしょう。


この対談を読んでいて、
なぜか年の離れた梁石日の話すことに
すごく共感しました。


彼の言うところの<身体感>。

頭や心ではなく
<身体、肉>が感じること。



例えば、神戸の酒鬼薔薇事件なんて、
起こってみて、みんな
びっくりしますけれども、
あれは日常の中から起こっているわけ
ですからね。日常というのは、そういう
非日常的なものをみんな抱えている。


との梁石日の言葉に、

「私のような月並みな感覚の

持ち主は、エッと驚くような事件
が起こりますと、
最後まで驚いたまま、という場合が
ほとんどです。
‥‥‥‥

世の中には私の想像できない
感性や感覚が、
たしかに存在しているらしい、
ということを認めるだけで‥‥」

と話す高村薫に対し、



どんな特殊な事件であれ、何であれ、
それは日常の中から
生まれてきているものである。
ですから日常とは何かというと、
そういうものを全部、
抱え込んでいるのですよ。
何が起こっても不思議でないような
問題が日常の生活の中に
あるわけですよ。


と梁石日。


また純文学についての話では、


彼らの小説を見ると、僕はときどき、
思うんだけれども、
いつウンコしてるんかなあとか、
そういう疑問、すごくあるのね。
よくわからない。
何をして食っているのかも、
よくわかんない(笑)。

基本的に言うと、そういうものを
描かなくてもいいんだけれども、
どこかで、そういうものが全体の中で
ちゃんと押さえ込まれている状況みたいな
ものが書かれていないと。
そういう問題は、こっちのほうへ置かれて
いるわけですよね。

僕は、人間というのは本来、
どんなに偉い人間でも、
バカな人間であっても、
みんな同じような通俗性を持って
いると思うんですね。
そういう通俗性を純文学の中では、
昇華しているというより、
一種カタルシス的に濾過しちゃっている。


どこかで通俗性みたいなものがないと、
本来、持っている文学の強さと言いますか、
エネルギーが出てこないと思います。
だから、僕は通俗性を否定はしないんですよ。




✨ ✨ ✨



この対談の中で高村薫は、
「ある新聞連載の企画で、普通の職業を
一つ取り上げて、
日々の仕事の風景をみつめる」
という連載を始めたけれど、
途中で中止したことを話しています。

その時の困難さをあとになって、
「現実の仕事、現実の人間の労働
というのは、物書きのもっている言葉を
受け付けないような何ものかなんだろう」
と気がついたのだと。

「現実の労働というのは、
私の目には何かしら言葉にならない
もののように感じられた、
ということです」と。


高村薫は好きな作家であり、
何冊かは買って読んでいましたが、
この対談を読んでいて、
彼女と梁石日との、それこそ
「身体感」の違いをかなり
感じさせられました。

「生の人生、生身の人間、
現実の仕事、現実の生活の前で、
私は実際に言葉を失ってしまった」
と語る高村薫に
何だかちょっとがっかりしてしまった
かも知れません。


梁石日が言うように、
誰でもが、何でも経験したから書ける、
というものではないとはもちろん思いますが、
小説の中で高村薫の描く人物の生活感は、
「多分、それはたまたま、事件という
ドラマチックな設定がある
小説の中だからこそ、
可能だったかなと思ったりもするのです」
ということだったのでしょうか。


対極にあると言えるかも知れない
梁石日と高村薫の対談。



教師のわいせつ行為、
優秀な大学の学生の強姦などの犯罪、
80歳前後の男性が似たような年齢の女性
を強姦。
近所ではあのおとなしそうな人が、
と写っていた人間の残虐な犯罪、
自分では車のブレーキを踏んだと
言い(思い?)ながら、
 歩道や病院やお店に突っ込む老人、
東北の大震災の後、福島から
避難してきた子供に対するいじめ。


「何が起こっても不思議でないような
問題が日常の生活の中にある」
と18年前に梁石日が指摘したとおり
日々目を覆いたくなる事件が
続いた2016年でした。


泣いても笑っても、今年もあと1週間です。


テロは続き、円は下がり続け、
トランプ後のアメリカと中国
のこれからにも目が離せない。


そんな2016年の(ここにいたら
そんな気分は全くしないですが)年末です。













0 件のコメント:

コメントを投稿