2017年4月10日月曜日

片岡義男とのある符合、やっぱり村上春樹はすごい







昨年日本に帰った時に、
母の住む町の、毎年行くたびに
ゲームと漫画本が増える
一方の古本屋で見つけた本。

たった100円。

アメリカでは1冊持っているのですが、
その時読む本がなくて、まあいいや
100円ならと買ったのでした。

帯付きです。





初版本で、しかも







このおまけまでちゃんとついていました。




引っ越しのパッキンッグのまっ最中で、
本はほぼ詰め終え、
「海辺のカフカ」を再読したあと、
読む本がない。

(パッキングと家事の合間、
寝る前とかにね、やっぱり何か
読むものがないと‥‥笑)


本棚に立てていなくて、
ベッドルームに置きっ放しになっていた
「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」。


エッセイ集だからどこから読んでも
大丈夫。


ということでタイトルを見ては
あっちこっちと読み始めましたが、

その中に

会社くらい素敵なものはない、
のか?


というタイトルの文章がありました。


そこで村上春樹が言っているのは、
彼と関わる出版社の編集者のことです。


編集者は出版社の社員
ではあるけれど、
自分としては一人の生身の人間
としてとらえるので、
その人個人の意見を聞きたい。


もし会社の見解というものがあるのなら、
「会社の見解は実はこういうものです。
しかしそれとは別に、
私の意見(村上春樹による点つき)
はこういうものです」という風に
並列してほしい。

‥‥でも僕が「××さん、それはあなた
の意見なんですか、それとも
会社の意見なんですか、どっちですか?」
と問い詰めても、それに対して
はっきりと返事できない人が中にはいる。


そこで村上春樹はこういうのは
習慣的な思考回路の問題だとずっと
思っていたけれど、
そのうちそうじゃないかもしれない
と考えるようになります。

この人たちは自分のはっきりした
意見を持っていないわけではなく、


自分の意見と会社の意見との差異
を人前で明確にしてしまうことで結果的
に生じる個人的な責任のようなものを、
極力排除しているだけかもしれない。

 





そこで私は思い出したのです。


少し前に読んだ片岡義男の
「日本語で生きるとは」を。






自分の頭ではなにも考えず、
すべてを会社に預けきった人生というものが、
戦後の日本で確立された。

中略。

会社のなかでは、誰も自前で
なにも考えなくてもいい。

‥‥自前で考えない人には責任が発生しないから、
誰もが責任の主体とならなくてもいい、
という結果につながる。

中略。

日本人がもっとも嫌うのは、自分の所属
する組織内で、責任の所在
が明らかにされることだ。

中略。

集団主義という言いかたにはなんの意味もない。

正しくは日本人の責任回避主義、
と呼ばなくてはいけない。

この本の中の「なにも言わない人」
という章で片岡義男はこう分析しています。


豊洲問題、森友学園、すべて
ここに終始しますよね。



✨ ✨ ✨


村上春樹のこのエッセイが出版
されたのが1997年。

片岡義男の本は1999年に出版されています。


英語とアメリカ生活。


二人に共通する点ですが、
もちろん本人のもともとの資質、考え方
もあったと思いますが、
日本を<外から見た>経験があるからこその
指摘、感じ方なのかなあ
とふと思った私です。


今日アップした安藤優子の「怒り」
にも通じますよね。












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