「ネコにでも癒されないと」という 表現は、もしかしたら、 ネコ好きの方からおしかりを 受けるかも知れませんが、 このところの川崎での残虐な殺人事件。
ニュースを見るたびに、なぜ? どうして救えなかったの? と言った怒り、無念が 私の中でぐるぐる回っていて、 それがこのタイトルになってしまった わけです。
朝起きたら、わたしはいつも キッチンのドアを開けて、 ベランダの温度計で気温を見るのですが (ちなみに今朝は−2℃でした)、 すると、向いの窓際に、 おすましのポーズで たたずんでいらっしゃるではないですか、 お向かいのネコちゃん。
見えるかどうかはわかりませんが、 ベランダから、例のガーフィールド のマグを見せたり、振ったりしてみる おバカな私。
しばらくきょろきょろしながらも じっとすわっていたのですが、 私がカメラを向けた時は もう、腰を上げたところ。
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コメントへの返信ありがとうございます、
返信削除アメリカの現状を改めて知ることが出来ました、傲慢かもしれませんが兵士のためのクッキーが武器や兵器より人の心や体を癒すお金に変わることを願ってます。
話は変わりますが
川崎での殺人事件の原因であるイジメや差別は今も日本全国で起きていて、
殺人にまで発展することはなくても多くの人が今も苦しんで傷つけられています。
現状を変えたいのですが・・・いい方法が見つかりません。
せめて追い込まれた人が逃げれる逃げ道があればいいのですが
そして最近の日本は他人を蔑んだり気に入らない相手を叩く生き方が少しづつ広がってきていて、人情というものが薄れてきているような気がしてなりません。
ある意味で今の日本社会は弱者を殺す戦場に思えます。
ここぺりさん、コメントありがとうございます。
返信削除<他人を蔑んだり気に入らない相手を叩く生き方>の蔓延はなぜなのでしょうか。
共同体の消滅、あらゆるもの、ことの<個人>化、生のコミュニケーションの不足、あるいはなさ、そういう様々な現象、現実が、「非寛容」「わがまま」な人間を作り出しているのでしょうか。
共同体があり、人と人との何気のない会話があるからこそ、<情>もわき、<人情>もうまれるのではないかと思います。
それにしても今回の事件はあまりにも残虐、凶悪過ぎます。
ここまでに至ってしまう前に、防ぎようはなかったのか。
私が感じるのは、被害者、犯人、どちらの側にも「家庭にいるはずの大人」の存在が
見えて来ないことです。
同じように「学校」という場にいる大人の存在も。
<追い込まれた人が逃げれる場>シェルターのようなものがあったら、と私も強く
思ってしまいます。
やるせないです‥‥。