2015年5月11日月曜日

長いですが、ぜひぜひ読んでみてください。故品川正治さんの講演記録です。

ねりま九条の会発足5周年1500人のつどい

生かそう憲法・広げよう九条・とめよう戦争
     品川 正治さん講演の記録

    2010年6月13日 於練馬文化センター大ホール
                          
    
  品川 正治(しながわまさじ)さんプロフィール
 1924年(大正13年)兵庫県生まれ。近年は新自由主義的な経済政策への批判、および憲法の問題に関して護憲の立場から発言・ 講演活動を続けている。
1944年12月、旧制第三高等学校在学中に陸軍に召集を受け、中国戦線に出兵する。戦闘で負傷し、散弾の破片を体内に残している。1946年に復員。日本帰国後に日本国憲法草案を報道する新聞を読み、強い感動を覚えたと語っており、その後の人生の原点となった。
1949年、東京大学法学部政治学科を卒業。同年日本火災海上保険(現日本興亜損保)に入社。同社社長(1984~     1989年)会長(1989~1991年)を歴任。1991年より相談役。
1993年から1997年まで経済同友会副代表幹事・専務理事を歴任。その後、同終身幹事に就任する。
2004年より財団法人国際開発センター理事・会長。「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(革新懇)
の代表世話人の一人でもある。
著書 「戦争のほんとうの恐ろしさを知る財界人の直言」(新日本出版社)
   「これからの日本の座標軸」(新日本出版社)
   「九条がつくる脱アメリカ型国家」(青灯社)
   「憲法を変えて戦争に行こうーという世の中にしないための18人の発言」(岩波書店)
はじめに 
 私は1924年の生まれでございます。大正13年生れ、今年86歳でございます。福沢諭吉の言葉を借りますと、「一身にして二生を生きた男」と言っても差し支えないと思います。最初の22年は、大日本帝国憲法のもとで、天皇陛下の赤子として、日本臣民としての生活でございました。後の60余年は日本国憲法の元で、主権者の一人として、日本国民の一人として生きてきました。その意味では「二生を生きた男」と考えてもいいのではないかと考えております。ただ初めの22年というのは、ほとんど戦時中の生活でございます。私は神戸の生まれです。小学校に入りました年に満州事変が始まり、中学に入りますときに日中戦争が始まりました。高等学校に入りましたときには、京都の三高でございましたがこのときにはすでに太平洋戦争が始まっておりました。私の少年期、青年期という思想形成期はすべて戦争中でありました。余談でございますが、私は練馬区で二度生活をしたことがございます。一度目はついそこ(練馬区練馬)です。二度目は桜台です。ですから練馬は第二の故郷のようなものなのです。ですから顔見知りの方も今日はたくさんお見えです。また、前に私の話を聞いたという方ともまたお目にかかりました。その方には話が重なることもあるかもしれませんがお許しを願って、今日の私の話を基本的にご理解願うためにも、戦争中のことからお話したいと思います。
学生時代
 只今お話しまたしように、高等学校に入学したときにはすでにその前年に太平洋戦争が始まっていたわけです。もう一つ大きなことは、それまでは学生は大学を卒業するまでは徴兵猶予があったのですが、私が入ったときから徴兵猶予はなくなったのです。徴兵猶予がなくなるということは、私にとっては学問ができる期間が二年しか残っていないことを意味します。クラスメートはみな同じことでした。まして一浪、二浪、三浪という形で入学された方には、いつ召集令状がきてもおかしくない、そういう時期でございました。高等学校というのはそれまでは青春を謳歌する場所だったのですが、がらっと雰囲気が変わりました。
 何よりも学校当局、先生方の方が早く変わられました。どんな授業が終わっても、先生方は深々と学生に向かってお辞儀をされるというのがしきたりになりました。授業を受けている学生の中には、召集令状を受け取ってから、最後にあの先生の講義を聞いて戦地に行きたい、そういう学生が必ずと言っていいほどいたのです。先生はそのことを知っておられますから、先生の方から深々と丁寧にお辞儀をされたのです。また講義の最後の方では、講義を通じて先生の信条を吐露するというのがまったく普通の光景になりました。京都の三高というのはどこの高等学校に比べても学生に対して寛大でした。もう授業を続けても1~2ヶ月後には、もっと戦争の動員が厳しくなるし、恐らく大部分の学生は徴兵に行く前に、勤労動員として軍需工場の労務者として使役されるだろうと判断した学校は、思いきって授業をやめてしまった。授業をやめたかわりに学生が希望する先生方を、北大であろうと、東大であろうと京大の先生であろうと、必ず呼んで見せるという学校当局の決意のもと、学生の希望を募って、一般の授業をやめて学生が望む先生の授業をやられるようになりました。私は今でも忘れることができないことがあります。それは三好達治という詩人がいらっしゃいましたが、その詩人の話を聞きたいというのが学生の大きな希望だったのです。前々年に『春の岬』という詩集をお出しになったのですが、それに目を通している学生が多かったもので、その先生の講義が聞きたいということになりまして、お呼びに行く役も私が命じられ福井の田舎まで行きました。三好先生の場合は他の大学の先生と違って高座に立って授業をやった経験をお持ちではないものですから、非常に真面目な格好で演壇に立たれて、都合五回『春の岬』の詩集の第一節から始まってすべての詩を、「なぜ私はこの詩をつくったか、最初できた格好はこうだったが、こういう言葉遣いだったが、改めたらこうなった」ということを丁寧に話してくださった。学生も非常に熱意を持って聞いておりました。最後の授業が終わりました時に「これで私の授業を終わります」とおっしゃって演壇の上に立って泣き崩れてしまわれ、最後は演壇にうずくまってしまわれ号泣しておられるのです。泣き声の合間合間に叫んでおられる言葉は嫌でも学生の耳に入りました。「若い君たちを死なして、オレが詩をつくれるか」そうおっしゃって演壇にうずくまって泣き崩れてしまわれたのです。私は、お呼びする役だったので、何とか先生をなだめて教員室にお連れしました。この記憶は心に焼き付いてどうしても忘れられないでいます。授業がない代わりに、私のような文科の学生でも、湯川英樹の素粒子哲学の講義も聞きましたし、和辻哲郎の倫理の講義も聞きました。こういう形で学生生活は私の前の人、あるいは2~3年後の世代とはまったく違う学生生活を送った次第でございます。
私が死ぬ前に読みたいと思っていた本はカントの『実践理性批判』という本であります。中学時代にすでに『永遠平和のために』とか『純粋理性批判』などを翻訳で読んでおりました。せっかく高等学校に入ったのだから原書で読み終えてから死にたいというのが私の望みでございました。それを学校当局は満たしてくれたのです。一学期であの面倒なドイツ文法を徹底的に鍛え込まれました。そして夏休みに入るその日に、先生から「これを読め」と言ってカントの『実践理性批判』を渡されました。これは何よりの最大の注釈書でした。なぜなら、先生の書き込みが至るところにあったからです。鉛筆で書いておられるところはたいていは、「わからん・わからん・わからん」でいっぱいでした。ペンで書いてあるところは「13ページを読み間違えていた」とか「神のことではない」とかそういう注釈が書いてありました。赤インキで最後に「わかった。これでいい」などというようなことが書かれていました。そういうわけですから最大の注釈書をいただいたと一緒なのです。その先生は担任の先生ではございませんでしたが、岩波文庫のカントの『実践理性批判』を出版しておられるカント学者の一人者でありました。私はその先生に徹底的に教えていただきました。一心不乱に読んで、読み終えたのは翌年の秋でした。それから10日目に私は召集令状を受け取ります。その意味では達成感は充分ありました。死ぬまでに読み終えたいと思ったのは、私なりの翻訳をして、先生にお渡しすることができたらと思ったからです。しかし、なぜカントの『実践理性批判』を読もうとしたのかと申しますと、一つは「この国は国家理性を失ってはしないか」、それを何とか解明したいと思ったからと、もう一つは、国家が戦っているときの、国民としての生き方は、死に方はどうあるべきかということを会得してから、戦地に行きたいという感じだったのです。達成感はあったものの私が持っていた問題に対しての答えは出てきませんでした。出てこないままに、私は鳥取の連隊に入隊いたしました。
 入隊したその日に私は非常なショックを受けました。私を含めていっしょに入隊した二百数十名の兵隊が全員ショックを受けます。と申しますのは、世間にいるときの学生服を脱ぎ捨てて、新しく支給された軍服に着替え終わった途端に、連隊全体に響き渡る非常呼集というラッパが響きわたったのです。私たちはまだお互いの名前も知らない、整列の順序も知らない、どういう班分けになるのかも分からない時期でございました。どうすればいいのかと思っていると、将校の一人が入ってこられて「お前達は今朝入ってきたばかりで整列の順序も何も決まっていない。しかし、練兵場に白い太い線が引いてあるから、そこに並べ」と言い残して出て行かれました。私たちは指示に従いました。ところが気がついてみると、全連隊の将校、下士官、兵士が全員私たちに向かって整列するのです。何事かと思っていると、連隊長がやおら演壇の上に立たれて極めて簡潔な訓示をされたのです。全将兵に向かって「今朝入隊したこの現役兵の顔をよく覚えておけ。心に刻んでおけ。この男たちは死にに行くのだ。この男たちを殴ったりいじめたりする将兵がおれば、俺は即座にその者を処分する。以上。」と言ったのです。私たちは入隊した以上は戦地に行くことを覚悟しております。戦死も覚悟しております。しかし、軍隊内部で「この男達は死にに行くんだ」とはっきり決めつけられ、誰もしばらくは口もきけませんでした。案の定、鳥取の連隊にいたのは2週間でした。そして戦地に行かされました。北支の部隊でしたが、どこに行くのかは全然知らされていませんでした。黄河を渡って西へ西へと進んで、戦後地図で確認すると日本の陸軍の中で最も突出した格好で、共産軍の本拠地に最も近い部隊でした。本体から分かれてからその部隊に到着するまでに山の中を5日ぐらい歩きました。その五日間の間に敵弾を浴びました。そういう現地だったわけです。二等兵で、身体に12発の手りゅう弾を巻き付けて、それを擲弾筒という武器を通じて敵地に打ち込むのが私の仕事でした。戦闘は絶え間がございませんでした。擲弾筒を撃ち込む隙さえなくて、いきなり迫撃戦を経験したことが2度ございます。私は敵の迫撃砲弾の直撃を受けて、その場で倒れ伏し、5時間に渡って意識も失っていました。戦死者と同じように扱われもしました。足にはその時の破片が残っています。しかし野戦病院に入るなどということはできません。私は何通も故郷に手紙を書きましたが、一通も届きませんでした。両親からの手紙も一通も受け取ることができませんでした。そういう部隊でございます。私はこんな自分の戦争体験を、80歳を超えるまではまったく話したことはございませんでした。私はある損害保険会社の社長をしておりますが、社員で私の足に弾が入っていることを知っている社員はひとりもいませんでした。言えなかったのです。私が復員して帰ってきた時には、たくさんの軍隊経験者がおりましたが、ニューギニアとか、フィリピンのレーテとか、あるいはビルマのインパール作戦に出られた方で戦死された方のうち、どんなに少なく見ても7割は餓死なのです。敵の弾に当たって死んだ方は2割を越していません。人間、餓死するということは大変辛いことです。体力もマラリアなどで失って気力もなくなって、「もうここで俺を放っておいてくれ、さらばだ」そう言って地面にうずくまったその日をその人の戦死の日とし、別れた場所をその人の戦死の場所とすることは、軍隊内規でさえ決まっていたのです。そういう経験をお持ちの方に、私が中国で戦闘をしていたときの話はできないという感じがしました。また、アッツ島、サイパン島、あるいは硫黄島、沖縄、こういうところでの戦闘経験者は、戦いに勝つという望みはほとんどなくなって、いつ玉砕するか、そのこと以外には考えられない状況に置かれながら、尚且つ戦闘を続けておられた人たちなのですね。それに比べて私の戦地、これは中国北支戦線では最も激しい戦闘地だったと言われておりますが、まだ、私たちの方がと思うと、おこがましくて言えないと思っていました。
トラウマを抱えて生きた半生
 本当の戦争を体験した人はほとんど世を去って、あるいはもう公衆の前には姿を表わすことができない年代に達しました。今、本当の戦争体験をきっちと記録しておかなければ、本当の戦争体験というものはわからないという心配から、東京大学の御厨さんなどを中心に、必死になって本当の戦争体験者の記録を残そうとしていますが、私は「率直に言って、それは難しいですよ」と申し上げたのでございます。
 なぜかといいますと、話を進めていって「そんなひどいすさまじい戦場から、あなたはどうして助かったのですか」と、その質問が出てしまうとあとは支離滅裂になるのです。言えないのです。そのトラウマを60年以上抱えてその人たちは生きてこられたわけです。みなさんの両親あるいはご主人の中に、そういう戦争体験をお持ちの方がいらっしゃると思いますが、あまり戦争の話をされないのが普通だと思います。そのトラウマを抱えながら60余年を生きていた人たちに、今それを言えといっても言えないのです。
 私自身も非常に辛いトラウマを抱えております。私たちの部隊は攻撃目標とされて、迫撃砲から機関銃からの照射を激しく受けたことがございました。私の入っておりました壕から十数メートルしか離れていない壕に、一人私の戦友が入って戦闘に参加しておりました。「やられた。助けてくれ」という叫び声を上げて、それに続いて私の名前を連呼するのです。「品川、品川、品川・・・」と。私は本能的に自分の壕を飛び出そうとしました。しかし私の壕にはもう一人戦友がいまして、私が飛び出そうとするのを馬乗りになって、ただ首を左右に振っているだけなのです。「今お前が出ればお前が殺される」と口では言いません。行くなとは言えないのです。私の名前を連呼しているのにいくなとは言えない。押さえ込まれて私は身動きができません。そのうちに私の名前を呼ぶ声が小さくなり、とぎれてしまったことを忘れることができないのです。あの激しい戦闘地域のことを思うと、その事実ばかりが私の中に甦ってくるのです。
 ところが、戦後、それに輪をかけたような私のトラウマが加わったのです。私は戦後復員して東京大学の学生として東京に下宿しておりました。その下宿先に先ほど申し上げた戦友の母親が訪ねてこられたのです。島根県の山奥の部落なのです。東京の町は焼け野が原で区役所などは健全な格好で動いていない。どうしてここが分かったのか、村の人たちは「あなたが息子の戦死のことをずっと気にしておられる。息子さんと一番親しかったのは品川といって、その人は今東京大学の学生である。もし本当に聞きたいのならその人に聞く以外はないだろうと聞きました。」村役場は必死になって私の下宿を探してくれて、また村の人は東京までの往復の切符さえ手に入れてくれました。どうか私の息子の最後の話を聞かせてください」と言われましても、私は面を上げることさえできませんでした。ただ現実には、3日間私の下宿で、そのお母さんといっしょに暮らしました。
 戦争というものを思い出すときには、私にとってはそのトラウマをどうしても忘れることができないのです。ところが、一昨年になりますが、松江で今日のような大きな大会が行われました。1000名を越える大会場で、私は話をする前に主催者から「今日は思いもかけない遠い村から、バスを三台も連ねて参加してくれた人たちがいますが、何か心当たりはございますか」と言われまして、とっさにその戦友の村の人だろうと思いました。演壇に上がりますと案の定、ある一角に私の過去の戦友だった人が一人いました。もう、人の背中に負ぶさってしか出てこれない状態でしたが、間違いなしにその村の人たちでした。今はその人は亡くなっていらっしゃいませんが。その村の人たちでした。もちろんお母さんなどはとっくに亡くなっていらっしゃいませんが、その村の人たちでした。私はそちらの方に手をついて謝りました。ところが、村の人たちは私の謝りを聞いて激しく泣き出だされました。その泣き声は会場全体に伝わってしまいまして、会場の人もみな泣き出したのです。主催者の方は「今しばらく休憩にいたしましょうか」というメモを渡してくれましたが、私は「このまま続けさせてください」と言って話を続けました。それが、私が長い間背負ってきたトラウマが幾分なりと消えた瞬間でございました。それ以後、私は自分の戦争体験を申し上げることができるようになりました。それ以前は、戦争とは価値観を転倒させるものだとか、すべてを動員するものだという意味で、戦争をある程度理論的にお話するのが私の仕事でしたが、それ以後私は自分の戦闘体験をはっきりと申し上げることができるようになりました。
 私事にわたって恐縮なのですが、私の一人息子は大学で政治学を教えておりました。嫁の方は孫娘が三つの時に亡くなりました。息子は大学の先生をしながら娘を一人で育てておりました。息子は娘を育てるために、大学ではヨーロッパ政治史の教授だったのですが、新たに教育学の勉強をして、NHK大学では教育学の教授でした。その息子も娘が小学校の六年生の時に亡くなりました。それ以後、その孫娘を引き取って私といっしょの生活をしています。孫娘はやっと大学を出て就職をしておりますが、私がこういう講演会をやるときには柱の影から私の話を聞いていたのです。私が本当の戦争の話を東京で初めて話したとき、娘は「どうしておじいちゃんは、自分の戦争の話をしてくださらなかったのか。知っていれば毎晩でも足を揉んであげたのに。」そう言ってくれました。それほど身内の者にも話をしてこなかったのです。この話を申し上げるのは、皆さんに、本当の戦争体験というものはいかに言い難いものなのか、また本当に戦地に出た人たちは60余年間もトラウマを背負って生きてこられたのだということを、ご親族の中で皆さんが自覚していただくことが必要ではないかと思うものですから、こうしてお話させていただいております。
「敗戦派」と「終戦派」
 戦争中、同じ時期に戦地にいたといっても、日本軍は中国大陸には100万人いたのですが、本当の戦闘部隊は10万人ぐらいですね。GHQが日本を占領していたと同じように、大都会は全部日本軍が占領していたのです。占領行政官としても、あるいは治安維持のためにも90万もの日本の兵隊が必要だったわけです。そういう意味では、戦争体験は人によって全然違います。いやというほど食料を集めたが送る手だてがない、腐らないようにするにはどうしたらいいかということで苦労した部隊もございました。空襲を一度も経験したこともないという部隊もありました。そういう方の戦争体験と私たちの戦争体験は違います。その最も著しい現れは、武装解除されて俘虜収容所に入った時のことです。みなさんはあれっと思われるかもしれませんが、中国での特に北支派遣軍の場合、戦闘地域にいた日本の軍隊の武将解除というのは11月の末なのです。8月に終戦になっておりながら、もう中国の国共内戦が始まっている地区ですから、双方とも武装解除をしないのです。ですから11月の末に武装解除を初めて受けまして、鄭州という河南省の広大な俘虜収容所に入れられました。河南省にいた日本の陸軍は全員といっていいくらいそこで過ごした筈です。そこで日本軍の内乱が起こったのです。武装解除されていますから銃撃戦はできませんが、それ以外の戦いは、同じ日本軍内部で激烈に行われました。中心になったのは、我々は「敗戦派」と呼んでいましたが、陸軍士官学校の出身者で、軍司令官や参謀本部、あるいは師団司令部とか、大都会の行政を与っていた人たち、そういう人たちを中心に、日本現政府を攻撃する檄文が書かれました。内容は「日本は敗戦した。この戦争は明らかに敗戦だ。にもかかわらず政府は終戦と呼んでいる。日本民族のこれからの生き方は、この敗戦の恥を国力が回復すれば必ずそそぐように国民を指導し、生きていくべきである。あんな日本には帰らない」という激しい日本政府に対する攻撃文なのです。
それに全将兵の血書を集めに来ていました。自分の指を切ってその血で自分の名前を書くというものです。それに対して私たちの戦闘部隊は真っ向から反対したわけです。「何を寝ぼけたことを言っているのか、この戦争で310万の日本人の命を亡くし、2000万を越える中国人を殺し、広島・長崎で一瞬のうちに20万ちかい命をなくし、日本の政府は「神国不敗」(神の国は絶対に負けない)と教えてきた軽蔑すべき人たちだが、「終戦」で結構、しかし、この戦争が終わったという「終戦」ではない、二度と戦争をしないという意味、日本は二度と戦争をしないという意味で「終戦」という言葉を活かそうではないか。あの連中の言っていることはなんだ、どの面を下げてこれから中国人と顔を合わせることができるのか。そういう激しい抗議をしたのです。毎夜毎夜、その部隊同士の争いは絶えませんでした。騙されて血書を出した者は「おれの血書を取り返す」と、将校宿舎に殴り込みを毎夜かけておりました。
憲法九条との出会い
 そうこうするうちに私たちは、内地復員の許可が出て、私は翌年の五月に一日メーデーの日に千崎という山口県の港に、その部隊全員が復員することになりました。上海の港から何千人という部隊が引き上げてきたわけです。山陰の部隊ですから山陰の港に入ったことにみんな歓喜の声を上げたものです。しかし北海道や九州や東北の部隊もいましたから、交通の面でも遠くの部隊から先に上陸させて山陰の部隊は三日間船に停泊していました。そこへ、民家から借りてきたよれよれの新聞が一箇中隊に一枚ずつ配られました。それがあの「日本国憲法全文」だったのです。国民に発表されたその日のうちに配られたのです。私は隊長の命令で、大きな声でみなに聞こえるように読みはじめました。私たちは大本営発表とか教育勅語ぐらいしか知らなかったので、あのやさしい文章にまず驚きました。九条にきて「戦争はしない、陸海空軍は持たない、国の交戦権は認めない」と聞いたときに、全員が声を上げて泣き出したのです。よもや成文憲法で、ここまで書いてくれたとは、これなら死んだ戦友の霊も浮かばれるし、また猛烈な被害を与えた中国をはじめそれぞれの国に対しても、これから日本は戦争をしないのだということをはっきりと胸を張って言えるようになる。よくぞ、ここまで書いてくれたという感じです。私の憲法との初めての出会いは1946年の5月1日ですね。そういう出会いをした男が今の憲法に対する思いが違うというのは当たり前なんです。
戦争を起こすのも人間、とめることができるのも人間
 私は皆さんにひとつ大事なことを申し上げておかなければいけないと思います。私は私の経歴をお話するときに、哲学青年だった私をご披露しました。しかし、私の哲学は完膚無きまで間違えておりました。
 戦争というものを「国家の起こした戦争」という目でしか見ることができなかったのです。それは明らかに哲学から言っても間違いです。戦争を起こすのも人間なんです。それをとめることができるのも人間なんです。なぜそれに気がつかなかったのか、これは私の戦後の非常に大きな座標軸になりました。もう一度申し上げます。戦争を起こすのも人間なならば、それを許さずとめるのも人間だ。私はどっちなのか、これが私の基本的な座標軸なんです。よく憲法の話をするときに、私は「戦争、人間、そして憲法9条」という題で話すことが多いのですが、その人間というもの大きな意義をそこにおいているわけです。今、誰が戦争をできる国にしようとしているのか、誰がそれに反対しているのか、これは容易に見分けがつくわけです。しか、いざ本当に戦争が始まった場合には、やれ、北朝鮮がどうこうした、やれ尖閣列島がどうのという格好で問題は全部そっちに代わってしまいます。今だからこそみなさんに言わないといけない、それが私の責任であると感じています。誰がこの国を戦争のできる国にしようとしているのか、これはみなさん方は容易に見分けがつく筈です。しかし「私はどっちなのか」、この座標軸を是非持ってもらいたい。これが私の話のひとつの主眼です。さらに人間という問題に関して付け加えますと、日本の憲法9条というのは成文憲法として、先進国ではありえようがない条文なのです。絶対つくれない条文なんです。先進国にはすでに軍もあります。軍産複合体もあります。軍需産業もあります。それが、革命もなしにあの憲法9条をつくれるかというと、どの国にもつくれません。というよりも「憲法でいう戦争」は、国家の目でしか見ることができないのです。国家の目で見た戦争というものを考えるわけです。日本も憲法が制定される前に国会で論議されたとき、佐々木惣一さんとか南原繁さんとか憲法学者は貴族院の中にはたくさんおられましたが、「9条は、人間の目で見て戦争はしないと決めたものだ」と言われた方は一人もいらっしゃらないのです。あくまで国家の目で見て、天皇制を擁護する為に必要だと、あるいはアジアの国を納得させるために必要だとか、そういう感じであの9条は制定されたわけです。憲法制定時には日本にはもう軍がなかったのです。陸軍省も、海軍省も、もちろん防衛省も何もなくて、何百万という日本の陸海空軍は厚生省の復員援護局の所管だったのですね。国際法的にも軍ではないのです。本当に珍しいときに珍しい格好でできたのです、九条は。しかし、それを60余年間守ったことによって、この憲法9条は、「戦争というものは人間として許されないのだ」という形に大きく変わったわけです。もちろん、たとえば60年安保、あの時にも安保こそ批准はされたものの、戦争というものに対しては「9条を守れ、9条を活かせ」という形で国中が騒いだ。その経験は大きく影響しておりますが、尚且つ60余年間守り続けたということは、この憲法の意味を「人間の目で戦争を見ているのがたった1つ、日本の憲法9条だけだ」という格好になってきた。国連といえども国家間の条約です。ですから国連軍というのもつくらざるを得ないし、戦争条項も持たざるを得ない。しかし日本の場合は、60余年の間にベトナム戦争も知り、朝鮮戦争も知り、アフガンも知り、イラクも知った。どんな戦争でも必ずミサイルを使う、爆弾を使う、甚だしきは無人飛行機さえ飛ばして相手陣地を攻撃する。そして必ず罪のない母親が死に、子どもが死ぬ。赤ん坊が死ぬ。今の戦争というのはそういうものだ。人間として許されない。国連が何といおうと人殺しはしない。日本は人殺しには加担しない。これが日本国憲法の形になってきたわけなのです。世界が夢見ているその格好を日本は60余年間守ってきた。はっきりと活かされてきたわけです。世界の宝になりかけているわけです。
 もちろん9条の旗はぼろぼろですよ。あの私が泣いて迎えた9条2項の、その当時の姿から見れば旗はぼろぼろです。というのは日本国の権力を握っておった主権者は、ただの一度もこの国を戦争のできない国にしようとしたことがない。しかし、国民の気持ちを考えれば憲法は変えられない。そこで解釈改憲と称して今の憲法を変えなくても戦争はやれるという格好でやってきたわけです。それが、自衛隊であり、有事立法であり、特別措置法であり、ついにイラクにまで陸上自衛隊を出し、ソマリア、インド洋には海上自衛隊を出した。その意味では旗はぼろぼろです。しかし、旗竿は国民が握って放していません。これが大きいのです。いくらイラクに兵を出しても、一人の自衛隊も殺されていない、またイラク人を殺していない。そういう日本になって来たわけなのです。それをどう変えようとするのか。
 憲法9条は世界中の宝です。もう一度申しますが、戦争を国家の目でしか見ることのできない憲法ではなく、人間の目で見た憲法9条を持っているたった一つの国なのです、日本は。もちろんコスタリカをはじめ常備軍を持たないとか、戦争放棄の条項をもっている国は25カ国あります。しかしそれは国家の目で見たもので、国益上軍を持たないのです。日本の場合とは違うのです。人間の目で見て許されない。それが日本なのです。そういうふうに私はみなさん方に是非訴えていかなくてはいけない。
経済を人間の目で見てほしい
 しかし、もう一つ、どうしてもみなさん方に申し上げておきたいのは、“戦争を人間の目でみた憲法9条を持った国が、なぜ経済を人間の目で見ることができないのか”これが私がみなさん方にある種の自責の念とともに、申し上げたいことです。私はずっと経済人として経済の第一線に立っておったわけです。本当の願いは9条を持っている日本が、率先して経済も人間の目で変えていくのが私の最大の念願でした。保険会社の社長をしていますときも、経済同友会をやっていましたときも、少しでもその方向に進められないものかと思っておりました。ところが現実には戦争や経済を国家の目でみるどころか、国家でさえ撹乱されてしまう、そういう金融資本の市場原理というものが世界全体の傾向になってきました。これは憲法9条にとって由々しき問題なのです。経済を人間の目で見ることができない日本が、戦争を人間の目で見ている。人間として許されないと言っているなら、今の経済はいったい何だ。ここにいらっしゃるみなさん方の中にはむしろ被害を被られた方も多くいらっしゃると思いますが、一昨年、2008年9月15日、リーマンブラザーズが破綻しました。これは私にとっては神風なのです。よくぞ潰れてくれた。アメリカ型の資本主義が正しいのだと叫び続けてきた小泉内閣以来、日本は、グローバリゼィションとして、1歩でも2歩でもアメリカ型に近づくことが正しいのだということで歩んできた。経済を見ようとしてきた。それが挫折してくれた。それどころか、政府に救援を頼んだことによって、アメリカ人でさえ知らなかったアメリカ型の資本主義の姿が国民の目の前に明らかにされたのです。早い話がみなさん方の中で拳銃一丁の値段を知っておられる方いらっしゃいますか?知っているのはヤーさんだけですよ。ところがアメリカの場合には家庭全体では二億丁の拳銃がある。スーパーで売っているんですよ。それほど違うんです。アメリカと日本では。またアメリカの上位S&Pの500社の社長の給料は平均労働者の430倍です。平均で。また金融資本を支えているファンドマネージャーの報酬は何と平均労働者の19000倍です。平均がですよ。これはアメリカ人でさえ知らなかったことです。そんなバカな話がという格好になったのです。
 日本とアメリカとは価値観が一緒だとこれを一番広く宣伝してきたのがマスコミです。なぜマスコミは日本とアメリカの価値観の違いをもっと国民にはっきり言わないのか。あのリーマンブラザーズの次の日、AIGというアメリカの保険会社が潰れかけて救済されました。潰せないのです。これも日本の新聞もアメリカの新聞も書きませんが、AIGというのは軍産複合体の中央に座っているのです。そこの保健を引き受けているのです。だから潰せないのです。日本では保険会社は平和産業だということをみなさん、ご同意くださると思うのですが、軍産複合体の中央に座っていたのがAIGなのです。アメリカと日本とは違う。価値観が違う。なぜそれを言えないのか。原爆を落としたたった一つの国はアメリカです。落とされたたった一つの国は日本です。価値観が一緒だと広島・長崎の人に言えるのか、また、日本は武器輸出三原則というものを持っています。しかし、基地を持たしているというのは最大の武器輸出なのです。それらが全部明るみでたのが今なのです。あれだけ基地を自由に使わせ、それこそ、アジアの、たとえばベトナムの場合は沖縄を悪魔の島と呼んでいます。それほど沖縄の人に気の毒なことがあるかと、これが現実に全部知らされてきたのです。それで普天間の問題もここまで大きな問題になってきているわけなのです。「日本とアメリカは価値観が違います」とひとこと言ってしまえばいいのです。核の傘に入ったままで、核廃絶を世界に先頭を切ってやるなんてことは恥ずかしくて言えないです。自分で核の傘に入っておってそれを弱めないでくれとか頼んでおいて、世界の核を廃絶するなんていうのが日本だ。こんなことは私は恥ずかしくて言えないです。「核の傘は要りません。」はっきりそう言う以外に核の問題に関して発言できるはずはないのです。北朝鮮が核を使うかもしない、しかし、世界中で北朝鮮ほど核のことで悩まされた国はないのですよ。周り全部が核武装国なのです。あるいは核の傘に入っている。北朝鮮だけがなかった。そういう事実に関しても一才知らされない。GNPで言えば足立区といっしょなのです。その国を経済封鎖するなんてことは後の時代の歴史から、あるいは国民にとって、あの時の日本人は気が狂っていたのではないかと逆に言われる心配さえあります。どうしてそんな小さな国を痛めつけるのか、本当に憲法9条を持っている国として、経済も人間の目で見る、そのためには「アメリカと日本とは価値観が違います」とひとこと言ってしまえば、日本の選択肢はものすごく増えるのです。それを言えるのは主権者としてのみなさん方だけなのですよ。政治頼み、行政頼みでそんなこと言える筈ないのです。外交官頼み、そんなものでは駄目なのです。みなさん方がはっきりとNO!と言ってしまえば、アメリカは世界戦略を変えざるを得ない。アメリカが世界戦略を変えると、世界史が変わるのですよ。それはちょうど、日本の主権者のみなさん方の一挙一動にかかっているのです。こんなことは日本史では初めてですよ。世界史が変わるという、その結節点に日本の国民がいる、しかもそれは主権者なのだ。今日は、私はそれを申し上げたいばかりに、私の第2の故郷の練馬区のみなさん方にぜひそういう話を知っていただきたいと思ってやってきました。私はもう86歳でございます。もうこんな話をする元気はございません。しかし、今話さないと、その気持ちでいっぱいでございます。是非みなさん方、そういう気持ちでこの9条の会に結集していただく、単に守るという問題ではなく経済も人間の目で見ろ!とおっしゃっていただきたい。「日比谷の派遣村を見ろ!人間は、国民はそんな従順ではない」ということをはっきりと知らせ、国民が状況をつくれるのだということをはっきりと示して欲しい。それをみなさん方に訴えたくて参りました。今日はお招きいただいて、私の方からみなさん方にお礼を申し上げないと、という気持ちで参りました。時間を延長して申し訳ございませんでした。









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