「超バカの壁」と言う本を読みました。
「バカの壁」は読んではいません。
貸してくれた本の中にたまたま入っていたのです。
その中に<後ろめたい>という感覚について
書いてあるところがありました。
<後ろめたいという感覚はキリスト教的世界では
あまり聞かないようです>
キリスト教の中には原罪という概念はあるでしょうが、
それは後ろめたさとはまた違います。
と養老さんは書いています。
☆
今までロサンジェルス、そして今のフラッグスタッフと
外国人たちと一緒に働いて来ましたが、
ここを読んでいてまさに思い当たったのです。
さぼろうが、同僚にいじめに近いようなことをしようが
彼らは自分に都合のいい言い訳はするけれど、あ、
ちょっと悪いことをしたな、
というような感情は全く見受けられません。
あっけらかんとして、自分が他人を傷つけたなんて
これっぽっちも想像もしない。
☆
<後ろめたい>
英語のguiltyとはちょっと違う。
語源はやはり<後ろ>に関係するみたいです。
いつも前を向き、後ろは振り向かない、すなわち
<反省>ということをしない、ということと結びつくのではないか。
今まで私が一緒に働いた、ヴェトナム人、タイ人、
アメリカ人、ナヴァホのco-workerからは少なくとも
<反省>とか、何かに、誰かに<後ろめたい>などという
気持ちは一切感じなかった。
毎日のように子供虐待のニュースを見てしまうと、
今や日本人も<後ろめたい>などという感情が薄らいで来ている
のかも知れない、と思ってしまう今日この頃です。
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