1922 The Farm

(ミロの絵は<ノラの絵画の時間>さんのブログからお借りしました)

【5月18日 AFP】スペインの画家ジョアン・ミロ(Joan Miro)の絵画28点が19日、英ロンドン(London)でチャリティーオークションにかけられる。収益金は難民支援に充てられるという。
 競売大手クリスティーズ(Christie's)がロンドンで実施するオークションは、赤十字(Red Cross)のために5万ユーロ(約600万円)の資金を調達することを目指している。
 1983年に90歳で亡くなったミロの孫に当たるジョアン・プニェット・ミロ(Joan Punyet Miro)氏はAFPに対し、収益を寄付する理由について、本人がそれを望んだだろうからと語った。
「私は自分のことを、ミロの願いを受け継ぐ役だとみなしているので、もし彼が今生きていたならば行ったであろうことを自分も行おうと努めている」

「ミロは全生涯にわたり苦難を耐え忍んだ人間だった。彼は飢えに苦しんだこともあったし、スペイン内戦の際は国を離れていた」
 共和派だったミロはスペイン内戦の際、フランス南部の国境沿いにあった難民キャンプで暮らしていたスペイン人難民たちのことを気にしていたという。
 内戦勃発時はフランスにいたミロは、そのままパリ(Paris)に滞在することを選んだ。1940年まで妻と娘とともにパリで過ごしたが、ナチス・ドイツ(Nazi)の侵攻を受けてスペインに帰国した。
 赤十字に対してミロは個人的な思い入れがある。1965年、プニェット氏の母に当たるミロの一人娘(当時34)が自動車事故にあい、脚を失う危険があった。だが赤十字の医師に救われ、1年間の入院の後、彼女は回復したという。
「祖父はたった一人の子どもを救ってくれた感謝の気持ちを込めて赤十字のためにタペストリーを制作した」とプニェット氏は述べた。(c)AFP/Alfons LUNA



今日のAFPニュースに載っていた記事。

ミロ展を京都の美術館へ観に行ったのは

一体いつだったのか。

何歳の時だったのか。

全く記憶がない。

まさか中学生だった?

でもカラフルな抽象画のイメージだけは

いつまでも残っていた。

なぜミロだったのか、

それも全く覚えていない。

その後、再び、ミロの画集を手にすることもなかった。

よもやミロがカタルーニャ人だったなどとは、

知りようもなかった。

そしてウィキペディアでミロのことを調べて、

なぜ Joan が<ホワン>でないのかも知る

カタルーニャ語では、

Juan は<ジョアン>と発音するからでした。


スペイン内戦、そしてフランコ独裁政権。

そのくらいは世界史の出来事として

何となく知ってはいたものの、

フランコ政権下ではカスティリーヤ語(いわゆる

スペイン語)しか使えず、それで<ホワン・ミロ>

と記述されたわけでした。


ロシア占領下のポーランドで、まだ少女だった

キュリー夫人が、

学校でロシア語の授業がされているか

検察に来たロシア憲兵の質問に、成績が優秀だったから

と指名されて答えたという話は

小学校の時に読んだ伝記にあったものですが、

スペインの近代史でも体制側により

カタルーニャ人は自分たちの言語が使えなかった、

そんな時代があったのですね。



ウィキによればダリもカタルーニャ人。

ダリは好きな画家です。


私の中では抽象画家という(勝手な)イメージ

しかなかったミロでしたが、

「農場」と題されたこの絵、

すばらしいです。

暮れなずむ空の藍色と茶色の土、

真ん中に配された木と満月。

実物を観てみたい!


「もし彼(ミロ)が今生きていたらば

行ったであろうことを自分も行おうと

努めている」とコメントしているミロの

お孫さん。


すばらしいお孫さんですね。


タイムリーな寄付となることでしょう。