(核の神話:17)脱原発阻む「核と共存」のトリック
東京電力福島第一原発事故をきっかけに、マーシャル諸島ビキニ環礁、カザフスタン、フランスの核被害の現場を歩き、日本やドイツで公開されているドキュメンタリー映画「わたしの、終わらない旅」を制作した坂田雅子さん(68)。福島の事故から5年、原発再稼働を進める日本の核エネルギーのあり方は――。
■核被害の現場を歩く、映画監督・坂田雅子さん
ほんとうは核と人類は共存できないんだけれども、いかにも共存できるというような「トリック」がずっと行われてきたわけですよね。だまされてきた。広島と長崎の原爆投下やビキニの第五福竜丸などの被曝(ひばく)事件があったにもかかわらず、アメリカのアイゼンハワー大統領が唱えた「原子力の平和利用」、つまり、核と人間は共存できるんだというような考え方が浸透してきた。核っていうのは使い方によっては人類に幸福をもたらす、みたいに言われてきたけれど、そうじゃないんだよってことをちゃんと見極めなきゃいけない。映画では、そういうことを言いたかったんです。
カザフスタン(旧ソ連)のセミパラチンスク核実験場近くのクルチャトフ市の市長は今も「原爆と原発は別物。原発はきちんと管理すれば環境にやさしい」と言う。日本政府も「核兵器は法律では禁じられていないけれども持たない。原発は再稼働する」。クルチャトフ市長と同じことですよね。福島原発事故のあと、日本人の過半数が「原発はもう続けちゃいけない」と思っているのに、「再稼働OKだ」という人たちはどういうことを考えているのか。原発がなくなっても電気がなくなるわけじゃないってことも分かっているのに。原発のある町の人たちの生活のためだけじゃ動かないはずですよね。
日本の原発の使用済み核燃料を扱うフランスのラ・アーグ再処理工場の地元の町では道路整備が進み、オリンピック級のプールやプラネタリウムまである。そういう町おこしの陰で、周辺では子どもの白血病増加というデータもあるし、人々は学んでいるはずです。ただ地元にお金が入るからというだけでは、日本でも原発再稼働という話にはならないと思うんですよね。それ以上の何か大きなからくりがはたらいているとしか思えない。
まず企業の論理ですよね。それから、廃炉のためにも原子力の技術を日本は持っていなきゃいけないと政府はいう。2012年に野田さん(佳彦首相)が「原発ゼロにしよう」としたら、アメリカが反対したでしょ。「原子力の専門家を養成し続ける必要がある」って。世界は原子力ゼロというわけにはいかないんだから専門家が必要だっていうロジックだったんですよね。
純粋な科学として原子力の研究を進めていけばいいと思うんですけど、政治との線引きが難しい。原子力の平和利用を唱えたアイゼンハワーが大統領を辞める時に軍産複合体の危険性を警告した。その時以上に事態は進んでいて、大学と企業の結びつきも密接になってきているし、純粋な科学研究が軍事利用されないようにする線引きは難しいでしょうね。
核の問題って、ものすごく難しい。20世紀を変えてきた問題ですよね。私もこの問題を映画で扱いたいと思った時に、私なんかに出来るのか、大きなチームがあるわけじゃなく、ほぼ1人で撮影から編集までやっていますから。大きな壁が目前にある時に、少しずつでも自分の目の前にあるものから削りとっていくより仕方がないじゃないですか。そんな気持ちでつくりました。
前作の映画「沈黙の春を生きて」では、ベトナム戦争で米軍が使った枯れ葉剤をテーマにしました。核とすごく似てる。福島で3・11が起きた時、私はその前作の編集の最終段階だったんです。今この映画を作って、だれに何を訴えたいのかと考えたときに、その50年ほど前にレイチェル・カーソンが「沈黙の春」を出版してるんですけどね、化学薬品の乱用の恐ろしさを最初に告発した本がたいへんなベストセラーになった。にもかかわらず、その50年後に枯れ葉剤という化学薬品による大きな災害がまだ起きている。だとしたら、今、農薬だとか遺伝子組み換え食品だとかを許してしまっていることが、50年後に災害をもたらす可能性があることを考えなきゃいけない。そういうことを言いたいと思って(前作を)つくってたんですね。
人間ができることに対する過信っていうのが、化学薬品にしても放射性物質にしてもあると思います。化学薬品だって、いろんな被害を出し続けている。前作をつくったきっかけは、1950~60年代にダウケミカル社が枯れ葉剤をつくっていたんですが、アメリカ・ミシガン州の工場から垂れ流された化学物質による影響がいまだに出ていること。それを追及しようと思って、映画づくりが始まったんですね。
人間はいろんなものを生み出してしまって、それがコントロールできるんだって今まで信じられてきたし、原子力が「平和利用」される時もそう思いたかった。人類の将来は明るい、人間は賢いからいろんなものを作ってきて、それによってよりよい社会ができるんだっていうことが言われてきたけれど、結局その背後にあったのは、利潤追求の産業社会だと思うんですね。
そのあり方を変える時に来てるんじゃないかって思います。今や軍産複合体って問題にさえならない。死語になっちゃってるぐらい当たり前のことになってますよね。学産共同体もそうです。日常のこととして組み込まれてしまっているのかなって思いますね。
【終わらない旅の意味】
映画「わたしの、終わらない旅」とは、そういう問題を難しい言葉で表現するのでなく、ビキニの島を追われた人やラ・アーグの市民運動家らに会い、そういう人々の言葉を聞いていく中で、私なりに学んできた旅なんですね。その旅の経験を、映画を見てくれる人たちと分かち合うことによって、見てくれる人たちが持っているいろんなわだかまりが整理されてきて、次にどうすればいいのかってことが見えてくるよう、少しでもお役にたてればいいかなと思っています。
最初は福島の映画をと思ったんですが、どうやって伝えていいかわからなかった。テレビも新聞もやってるし、たくさんの映像作家が入ってるし、私が繰り返してやることもないし、16万人の避難民がいれば16万の話があるわけですよね。そこから抽出したものを説得力のある映画にする自信もなかった。一歩引いて、もっと広いところから、あのときなんでこうなっちゃったのかっていうことを見たいと思った。
それで、まずビキニに行くきっかけっていうのはですね、(1986年の)チェルノブイリ原発事故のあとに、母(故・坂田静子・脱原発北信濃ネットワーク代表)と母の仲間たちが放射線測定器を買った。当時30万円っていう結構高いものだったんですけど、うちの台所に置いてあって、母は自慢げに「こんなのを買ったのよ」って。「こんなのが役に立つことがあるんだろうか。ムダなんじゃないの」って私は思ってました。
ところが、母の死後も母の仲間たちが大事に持ってくださっていた。福島原発事故の約2カ月後、福島に車で入る時にそれを持っていったんです。飯舘村あたりに入ると、ピーピーピーピーと音がする。いったい50年後、60年後の福島はどうなっちゃうんだろうと思いました。
でも、福島に何回行っても、福島がなかなか見えてこない。そうしたら、あるテレビ番組で、第五福竜丸元乗組員の大石又七さん(「核の神話:15」で紹介)が、「原子力の平和利用のまやかし」ということに触れられていて、「あ、これだ」と思ったんですね。約60年前にビキニ環礁で被曝した大石さんの話を聞きに行ったら、とてもわかりやすく説明してくださった。それで、福島の60年後を見るために、ビキニに行こうと思いました。
もう一つ、「原子力の平和利用」についてですけど、フランスで日仏通訳をやっている友人がいます。70年代っていうのはフランスでも日本でも原発の建設ラッシュでしたから、日本からたくさんの原子力産業の人たちやジャーナリストがフランスに視察にやってきた。そのインタビューに通訳として立ち会ったら、日本から来る人たちが口々に「原子力の平和利用」「平和利用」って言う。
フランスでは原子力といえば核兵器というのが常識だったから、なんでこの人たちは「平和利用」「平和利用」って言うんだろうと、すごく違和感を感じたそうなんです。フランスでは、核は国威の発揚っていう意識があるそうですね。私たち日本人が当然と思って聞いていた「平和利用」っていう言い回しが、そんなに当然のものじゃなかった。フランスは原子力によって被害を受けていないから、反核の動きっていうのがほとんどなかったんですね。核を持って国が強くなるってことが当然の国是とされていると思うんですね。
【目に見えない影響】
被曝の影響って、すぐ目に見えては出てこない。枯れ葉剤は目に訴えてくる明らかな奇形があって、わかりやすいけど、放射性物質はそうではない。映像で目に訴えるってことが出来ないし、セミパラチンスク核実験場周辺の奇形児の写真はありますが、本当に放射能の影響かどうかわからないし、ショッキングな写真を映画で使うことがいいかどうかわからないし。だから福島だって「死んだ人はいない」とか言って、ごまかされてしまう。
低線量の放射能は危険じゃないという学者もいますけど、触れるべきでないものに触れてしまったということはあると思うんです。(米国の核実験があった)ビキニは60年たっても、まだまだ被害が出ている。核兵器も原発もやめなきゃいけない。即時ストップ。まず、やめるという決断をすること。その決断を政府がするのか、事業者がするのか。
映画でフランスの元原発労働者が、こう問いかけます。「それが人を殺すことを知りながら、家で原子力の電気を使うのか」。映画で使いたかったけれども使えなかった彼の言葉もあります。それは、「原子力っていうのはギロチンのようなものだ」。原発で働くっていうのはギロチンの下にいるようなものだって言う。「ただ、ギロチンはバサッと落ちるけれども、原発で働くってことは、ギロチンが少しずつ、少しずつ、少しずつ落ちてきて、最後には……」。それと、彼が言うには「フランスの電力公社のおえらいさんにとっては、原発労働者の命なんてどうでもいいんだ。自分たちの飼い犬の命の方がよっぽど大事なんだ」って。
フランスの友人たちは、枯れ葉剤がテーマの前作は上映会をしてくれましたけど、核をテーマにしたこの映画については二の足を踏んでいるんですね。個人的に見てくれたフランスの友人らも「ぼくは本当は原発推進派なんだよ」「私も」ってね。フランスという国全体の大勢が原発推進派なのかな。福島の事故で少しは原発反対の人も増えたんでしょうけど、フランスは地震がないから大丈夫っていう考えの人がほとんどでしょうね。
フランスのラ・アーグ(再処理工場)の周辺では子どもの白血病が増えたっていうデータがありますけど、ラ・アーグをのぞむ英仏海峡の英国側の島で暮らす私の姉の周辺で反原子力の声はあがっていません。フランス側から電気をもらっているからでしょうか。
ドイツでは小さな上映会をやってくれました。「ドイツはフランスの原発に頼ってるっていうのは間違いだ。再生エネルギーで十分やっていける」って言ってましたね。ドイツの問題は石炭ロビーがすごく強いから、それが減っていかないことだそうです。
ドイツでは市民社会がうねりになって脱原発が決まった。日本では市民社会の声が政治に反映されない。どうすればいいのか。民主主義のあり方を変えなきゃいけないのかな。多くの人が原発再稼働に反対しているという民意が政治に反映する仕組みが必要です。
運動会の綱引きで、自分1人が力をゆるめたって変わらないんじゃないかって思って手をゆるめると、やっぱり違う。100人のうちの1人でも引っ張るのと引っ張らないのとでは、違うんですよ。あきらめてはいけないと思う。
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あれほどの自然災害は予想もつかない規模のものでした。
そこへさらに人口災害である原発の事故。
そういう知識がある人ならすぐにあれはメルトダウンだとわかったはずです。
この映画監督が話すように、核と人間は共存できない。
それを「平和利用」などというオブラートにくるまれて、広島、長崎の原子爆弾弾で壊滅的な打撃を受けた戦後間もない日本にアメリカから差し出されたウラン。
もっともっと真摯に真剣に捉えないといけない
原発。
でないと日本にどんな未来があるというのでしょう。
もっともっと真摯に真剣に捉えないといけない
原発。
でないと日本にどんな未来があるというのでしょう。
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