2019年6月9日日曜日

村上春樹はなぜ口を開いたのか








まだ日本にいた5月の初めに、
インターネットの朝日新聞で、
村上春樹が文藝春秋に自分の父親について
の文章を寄稿したという記事を読み、
すぐに買いに行きました。


でもこれはゆっくりとした時にじっくり
読みたいと思い、結局今日までそのページを
開くことはありませんでした。


ただ買って来てすぐにちらっとページ
を開けてみたら、何と彼が
小さい頃の写真まで提供していたことに
少なからず驚きました。










タイトルは「猫を棄てる」。

作り物ではないストーリーに、
何とも小説家らしいタイトルです。


結局私は村上春樹のこの文章に、
けっこうたくさんの付箋を付ける
ことになりました。









例えばこんな文章。


僕は今でも、「この今に至っても」(ルビ付き)、
自分が父をずっと落胆させてきた、
その期待を裏切ってきた、
という気持ちをーあるいはその残滓
のようなものをー抱き続けている。
(中略)
十代の僕にとってそれは、
どうみてもあまり心地よい環境
とは言えなかった。
そこには漠然とした後ろめたさのようなもの
がつきまとっていた。


今回母が亡くなって、私はしばらく忘れていた
感情を思い出したのです。


私もまさに母を落胆させ続けてきたのだ
ということに。
母の期待には添えなかったということに。


でもかといって私は、母に後ろめたさや
悪いことをしたという気持ちはありません。
若い頃から、母の期待にはわざと答えないぞ、
という決意みたいなものすら
私の中にはあったからです。


他にもあちこち付箋を貼りましたが、
母の死に際して、たまたま文藝春秋で
村上春樹の父親に関する寄稿を読み、
その中にこんな部分を見つけて少し、
村上春樹に近しい気持ちを抱いた私でした。



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