2018年7月29日日曜日

元オウム真理教信者の死刑



以下は毎日新聞に寄稿された
村上春樹氏の文章です。

会員のみが読める記事で、
無料会員である私は108円を払って
1日、24時間だけの会員になって
読むことにしました。


村上春樹の「アンダーグラウンド」
「約束された場所で」
を読んだ村上春樹ファンの1読者として、
どうしても読みたかったからです。


寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行

死刑の持つ意味

 七月二十六日に、七月六日に続いて二度目の死刑執行が一斉におこなわれ、これで死刑判決を受けた元オウム真理教信者の十三人、すべてが処刑されたことになる。実にあっという間のできごとだった。
 一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対する立場をとっている。人を殺すのは重い罪だし、当然その罪は償われなくてはならない。しかし人が人を殺すのと、体制=制度が人を殺すのとでは、その意味あいは根本的に異なってくるはずだ。そして死が究極の償いの形であるという考え方は、世界的な視野から見て、もはやコンセンサスでなくなりつつある。また冤罪(えんざい)事件の数の驚くべき多さは、現今の司法システムが過ちを犯す可能性を--技術的にせよ原理的にせよ--排除しきれないことを示している。そういう意味では死刑は、文字通り致死的な危険性を含んだ制度であると言ってもいいだろう。
しかしその一方で、「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる。その事件に遭遇することによってとても多くの人々が--多少の差こそあれ--人生の進路を変えられてしまったのだ。有形無形、様々(さまざま)な意味合いにおいてもう元には戻れないと感じておられる方も少なからずおられるはずだ。
僕は自分の書いた本を読み直して泣いたりするようなことはまずないが、この「アンダーグラウンド」という本だけは、必要があって読み返すたびに、いくつかの箇所で思わず涙が溢(あふ)れ出てきてしまう。そのインタビューをしていたときの空気が、そこにあった気配や物音や息づかいが、自分の中にありありと蘇(よみがえ)ってきて、息が詰まってしまうのだ。たとえセンチメンタルだと言われようと、僕は本を(小説を)書く人間として、そういう自然な気持ちを押さえ込んでしまいたくないし、できることならそれを少しでも多く読者に伝えたいと思う。また僕自身も、この一冊の本を書くことを通して、自分の中で何かが確かに変化したという感触を持っている。

遺族感情 どこまで反映

 ただ、遺族感情というのはなかなかむずかしい問題だ。たとえば妻と子供を殺された夫が証言台に立って、「この犯人が憎くてたまらない。一度の死刑じゃ足りない。何度でも死刑にしてほしい」と涙ながらに訴えたとする。裁判員の判断はおそらく死刑判決の方向にいくらか傾くだろう。それに反して、同じ夫が「この犯人は自分の手で絞め殺してやりたいくらい憎い。憎くてたまらない。しかし私はもうこれ以上人が死ぬのを目にしたくはない。だから死刑判決は避けてほしい」と訴えたとすれば、裁判員はおそらく死刑判決ではない方向にいくらか傾くだろう。そのように「遺族感情」で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正なことだろうか? 僕としてはその部分がどうしても割り切れないでいる。みなさんはどのようにお考えになるだろう?

葛藤 秘められたまま

 僕は「アンダーグラウンド」を出版したあと、東京地裁と東京高裁に通って地下鉄サリン・ガス事件関連の裁判を傍聴することにした。仕事の関係で旅行に出ることも多く、もちろんすべての法廷には通えなかったが、東京にいるときは時間の許す限り傍聴した。とくに林泰男(元死刑囚)の裁判には関心があったので、そちらを主にフォローした。僕が林泰男の裁判に関心を持ったのは、彼がサリン・ガスを散布した日比谷線(中目黒行き)の車両がもっとも多数の被害者を出し、そのうちの八人が命を落とされたからだ。僕がインタビューした被害者も、その車両に乗っていた人が圧倒的に多かった。彼は他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入った二つのビニール袋を、尖(とが)らせた傘の先で突いたのに対し、自分から進んでビニール袋を三つに増やしてもらい、それを突いた。そのことも被害者の多さに繋(つな)がっていると言われる。その林泰男というのはいったいどういう人物なのだろう? どのようにしてそんな重大な犯罪を犯すに至ったのだろう? 僕としてはそれを自分の目で見届けたかった。伝聞なんかではない第一次情報として知りたかった。
結果として、林泰男はかなり複雑な感情を抱えた人間だという印象を僕は持った。今ここで「彼はこういう人間だ」とはっきり割り切ることは、とてもできそうにない。彼の裁判には何度も足を運んだが、被告席に座った彼が何を考え、何を感じているか、その本当の気持ちを見極めることはむずかしかった。どちらかといえば、自分にとって大事なものは殻の中に収め、人目には晒(さら)さないという態度を静かに保っているように見えた。長い逃亡生活中に身につけたガードの強さみたいなものも、そこにはあったかもしれない。相反するいくつかの感情を、うまく統合しきれないまま、捌(さば)ききれないまま自分の中に抱え込んでいるような印象も受けた。ただ自らの行為を悔やみ、審理の進行に対して終始協力的であったとは聞いている。
昔の友人や知人の証言を総合すると、本来は前向きで、真面目な考え方をする素直な青年であったようだ。弱い部分や、心の傷を抱えてはいたが、自らを律しようという意志もそれなりに強かった。多くの人々が彼に対して好感を抱いていたようだ。しかしそのような真摯(しんし)で前向きの姿勢をうまく活用できる状況に、自分の身を置くことがむずかしかったらしい。それはこの裁判で裁かれた多くの元オウム真理教信者について、共通して言えることでもあるのだが……。そして「修行」という名の新しい文脈が、彼らの充(み)たされざる思いを手際よく有効に、そして結局はきわめて邪悪に、すくい上げていくことになった。
 林泰男の裁判に関して、僕がよく覚えているのは、法廷にいつも必ず彼のお母さんが見えていたことだ。誰かが「あれが林の母親だよ」と教えてくれた。小柄な女性で、よく僕の前の傍聴席に座っておられた。裁判のあいだじゅう、ほとんどぴくりともせず、たぶん被告席の息子の方をじっと見ておられたのだと思う。彼女の姿が法廷に見当たらなかったのは、判決言い渡しの当日だけだった。おそらく息子に極刑の判決が下りることを覚悟し、それを実際に耳にすることに耐えられなかったのだろう。まだお元気でおられるのか、今回の死刑執行の報を耳にしてどのように感じておられるのか、それを思うと胸が痛む。

木村判決 一筋の光明

 林泰男の裁判に関して、もうひとつ印象に深く残っているのは、担当裁判官であった木村烈氏がとても公正に、丁寧に審理を運営しておられたことだ。最初から「実行犯は死刑、運転手役は無期」というガイドラインが暗黙のうちに定められている状況で(林郁夫=受刑者・無期懲役確定=という例外はあったものの)、審理を進めていくのにはいろんな困難が伴ったと思うのだが、傍聴しながら「この人になら死刑判決を出されても、仕方ないと諦められるのではないか」と感じてしまうことさえあった。
 正直に申し上げて、地裁にあっても高裁にあっても、唖然(あぜん)とさせられたり、鼻白んだりする光景がときとして見受けられた。弁護士にしても検事にしても裁判官にしても、「この人は世間的常識がいささか欠落しているのではないか」と驚かされるような人物を見かけることもあった。「こんな裁判にかけられて裁かれるのなら、罪なんて絶対におかせない」と妙に実感したりもした。しかし林泰男の裁判における木村裁判長の判断に関する限り、納得できない箇所はほとんど見受けられなかった。判決文も要を得て、静謐(せいひつ)な人の情に溢れたものだった。

十三の死 踏まえ考える

 それでも死刑判決を生まれて初めて、実際に法廷で耳にして、それからの数日はうまく現実生活に戻っていくことができなかった。胸に何かひとつ、鈍いおもりが入っているような気がしたものだ。裁判長の口から死刑が宣告されたその瞬間から既に、死は法廷の中に姿を現していた。
 そして今、オウム事件関連の死刑囚、十三人全員の死刑が執行されたとの報を受けて、やはり同じように胸の中のおもりの存在を感じている。表現する言葉をうまく見つけることのできない重い沈黙が、僕の中にある。あの法廷に現れた死は、遂(つい)にその取り分をとっていったのだ。
 十三人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったのかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない。あまりに多くの人々の顔が脳裏に浮かんでくるし、あまりに多くの人々の思いがあたりにまだ漂っている。ただひとつ今の僕に言えるのは、今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。もしそこに「これを事件の幕引きにしよう」という何かしらの意図が働いていたとしたら、あるいはこれを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら、それは間違ったことであり、そのような戦略の存在は決して許されるべきではない。
オウム関連の事件に関して、我々には--そしてもちろん僕自身にも--そこから学びとらなくてはならない案件がまだたくさんあるし、十三人の死によってそのアクセスの扉が閉じられたわけではない。我々は彼らの死を踏まえ、その今は亡き生命の重みを感じながら、「不幸かつ不運」の意味をもう一度深く考えなおしてみるべきだろう。

2018年7月14日土曜日

瞑想、仏教、インド


タイ洞窟のサッカー少年たち、心身を支える瞑想で耐えた9日間


地元の少年がみんなやる「通過儀礼」で洞窟の中へ

タイの洞窟の中に15日間閉じ込められ、ようやく一部が救出されたサッカーチームの少年たち(9日朝の時点で4人を救出済み)。狭く暗い洞窟内に食べ物もない状態で閉じ込められていた割には、発見時のビデオに映し出された少年たちが明るく元気だった様子を見て、安堵しつつも不思議に思わなかっただろうか? 少年たちは一体どうやって、あの状況で心の安定を保てたのだろうか?
タイ北部にあるタムルアン洞窟に閉じ込められたのは、サッカーチームの少年ら12人(11〜16歳)と25歳のコーチの計13人。6月23日に洞窟へ入って行方が分からなくなり、9日後の7月2日に全員無事で発見された。そこから実際に救出されるまでにはさらに1週間近く(大部分の少年たちはそれ以上)かかることになった。
英ニュース専門局スカイニュースによると、少年たちがこの洞窟を訪れた理由は、「一番奥まで行って壁に名前を書いて戻って来る」という、地元の少年たちがやるお遊び的な「通過儀礼の儀式」の一環だった。ところが、急激に大雨が降ったことで水位が上がり、身動きが取れなくなってしまった。

英紙インディペンデントによると、少年たちは発見されるまで何も食べず、水は洞窟の壁から滴り落ちてくるものを飲んでいた。懐中電灯を1つだけ持っていたが、そのうち電池が切れてしまったという。

発見時、少年たちは瞑想をしていた

食料もない真っ暗な洞窟の中で、わずか11〜16歳の少年たちが9日間も行方がわからないと聞いて、外で待っている人たちも望みを持ち続けるのは難しかっただろう。少年たちの状況は、閉所恐怖症の人なら想像しただけでパニックになってしまいそうだ。
豪紙ジ・オーストラリアンは、捜索で洞窟に入ったダイバーが発見した時、少年たちは瞑想をしていた、と伝えている。体力を消耗しないよう、そしてパニックにならないよう、コーチのエッカポル・ジャンタウォンさんが少年たちに瞑想を教えたのだ。
ジャンタウォンさんのおばのシビチャイさんがジ・オーストラリアンに話した内容によると、ジャンタウォンさんは10歳の時に病気で家族全員を失い、その後は仏教の僧院で暮らした。孤独で寂しげだった少年はその僧院で、心身たくましい青年に成長した、とシビチャイさんは話す。
米紙ニューヨーク・タイムズは、ジャンタウォンさんは僧侶として10年過ごし、現在もときどき僧院に戻り、僧侶とともに瞑想すると伝えている。

専門家もコーチの瞑想を支持

洞窟に閉じ込められた少年の中に自身の11歳の息子がいるという女性は、発見時のビデオを見て、子供たちがいかに落ち着いているかを指摘。「泣いたりわめいたりしている子が誰もいない」と驚きを隠さない。ジャンタウォンさんの落ち着いた性格が子供たちの心の状態に影響したのだろう、とニューヨーク・タイムズに語った。
スタンフォード大学医学部で精神行動科学を教えるデイビッド・シュピーゲル教授はニューヨーク・タイムズに対し、「青年期は特に社会的なので、友達やコーチがいてくれるのは大きな助けになる」と説明する。
また、閉じ込められた人が心の健康状態を保つのに瞑想が役立つ可能性がある点についても、シュピーゲル教授は同意する。「恐れに対して戦うのではなく、まるで嵐が通り過ぎるのをじっと待つように、怖い思いやネガティブな考えをやり過ごす」ことが瞑想で可能になるからだ。

ニューヨーク州立大学バッファロー校で心理学を教えるマイケル・ポーリン教授も、子供たちの精神状態を健全に保つのに瞑想が役に立っただろうとニューヨーク・タイムズに話した。それが例えば直接的でなかったとしても、コーチが自分たちを助けようと瞑想を教えてくれているんだと思い、「愛され、大切にされていると感じることが重要だ」と説明している。

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上の記事はニューズウィーク日本版からです。

タイで洞窟に閉じ込められた少年たち
が9日ぶりに見つかった時の映像を見て、
彼らの穏やかで明るい表情に、
何であんなに怖い体験をしてこんなにも
明るく、ほがらかにいられたんだろう
って不思議に思っていました。

その理由がこのサッカーコーチが
少年たちにさせた瞑想にあったのですね。

昨今はマインドフルネスなどと
英語で話題になっているいわゆる「瞑想」ですが、
遠くインドでブッダも行った瞑想。
英語ではメディテイションですが、
それがアメリカ人学者の
心理学的、科学的研究によって
「マインドフルネス」などという名前を
冠せられた、と私は理解しています。

70年代にアメリカのヒッピーたちに
流行った「東洋思想」。
禅はZENとなりある種の人々の間に広まりましたが、
今どきの瞑想は「マインドフルネス」
という名前がついてこれまた
ビジネスパーソンから健康志向のやからにまで
受け入れられているようです。

でもきっとこのサッカーコーチが
少年たちにさせた「瞑想」は
「マインドフルネス」ではなくて、
彼が仏教寺院で修行した時にしていた「瞑想」
だったはずです。

ストレス解消だの、鬱に効くだの、
何だかんだの効果が得られなければ
受け入れられない、東洋の思想。

所詮そういうものなのでしょう、
と私は距離を置いて見ています。




2018年7月11日水曜日

ヴァーチャル vs リアル



以下はAERAdot. からの記事です。


井上死刑囚から勧誘された医師が明かす「オウム真理教は受験エリートの末路」


受験エリートの一つの末路だった――。教団元幹部7人の死刑が執行されたオウム真理教事件。当時、信徒には高学歴の若者が多く、事件にも関与していた。現役の医師で、東京大学医科学研究所を経て、医療ガバナンス研究所を主宰する上昌広氏は、自身の経験をもとに「背景にあったのはリアリティーの乏しさ。私と入信した友人を分けたのはわずかな差」と振り返った。
*  *  *
 実は、私もオウム真理教事件に少しだけ関わった。高校(神戸市の灘高校)、大学(東京大学)の同級生の中に幹部になった人がいたためだ。特にI君とは仲が良かった。真面目で信頼できる人物だった。
 医学部の学生時代や研修医のころ、I君からはしばしば電話がかかってきた。夜中に私のマンションまで車で迎えにきてくれて、南青山の教団の道場にお邪魔したこともあった。カレーとジュースをごちそうになり、勧誘された。担当は井上さん(死刑が執行された井上嘉浩元死刑囚)だった。I君と井上さんは一緒に行動することが多かった。井上さんは少しやんちゃで、行動力があるという雰囲気だった。
 当時、NHKスペシャルでチベット密教が取り上げられていた。私も関心があったので番組を観て、その後出版された本も読んだ。I君らの主張は、基本的に、このようなドキュメンタリー番組で報じられている内容と同じだった。私はチベット密教という権威に抗いがたい雰囲気を感じた。
 2人からは、富士山の裾野で修行しようと何度も言われた。「信頼する友人がいるのだから、一度だけ行ってみようか」と何度も思った。しかしながら、最終的に私はいかなかった。その理由は、彼らが「剣の達人になれば、気のエネルギーで接触しなくても切れる」と言ったためだった。
 私は剣道で挫折を経験した。高校時代に最も情熱を注いだのは剣道だった。それなりに自信もあった。ところが、大学進学で神戸から東京に出てきて、全国から集まる剣道の有名選手を目の当たりにし、自分の実力のなさを痛感した。剣道業界紙で強烈に強い奴がいるというのを知っているのと、目の当たりにするのは全く次元が違う経験だ。有名選手に負けるならいい。東大剣道部でも歯が立たない人たちがいっぱいいた。特に九州出身の方は強かった。この頃、私は剣はしょせん膂力と考えていた。オウムの主張はリアリティーのない机上の空論に感じられた。
 その後、1994年の年末には浅草で、NHKに就職した高校の同級生とIくんと3人で飲んだ。この同級生はオウム真理教報道に絡み、その後NHKを退職することとなった。この時I君が「ハルマゲドンが起こる」と言ったことを覚えている。2人で「何を言っているんだ」とからかった。
 次に、私がオウム真理教と絡むのは、95年3月のテロ事件の後だった。ほどなく、警視庁公安部から職場に電話がかかってきた。連絡してきた理由は「狙撃された国松長官(当時、教団に対する捜査を指揮していた国松孝次元警察庁長官)とオウム真理教の幹部の両方を知っているのは先生しかいない」ためだった。国松さんは、東京大学剣道部の先輩で、当時その住所は東京大学剣道部のOB会誌と、官僚の幹部名簿にしか載せてなかったようだ。
このときのヒアリングで、公安警察の刑事が、94年の年末に私とIくんが浅草であったことも知っていた。関係者の手帳を押収したのか、そのころから内偵したいたのかわからない。
 その年の夏には、新宿署の刑事がやってきた。もう1人の同級生であるT君が、東京都庁に爆弾を郵送し、被害者が出たためだ。その後、彼は懲役15年の刑で服役する。この時、新宿署の担当者には、「事件発覚直後に公安警察の方々に話しましたよ」と伝えた。彼らが、この情報を全く知らなかったことに驚いたからだ。刑事いわく、「あの人たちは、われわれには全く教えてくれない」との事だった。さらに「先生が、全部話してくれるので、こちらもいろいろと話しましょう」と言ってくれた。
 当時東京大学医学部からオウム真理教に絡んだのは名前が出ている2人だけではなかったとのことだ。大勢が富士の裾野に行ったらしい。その後の経緯はわからない。簡単に縁は切れなかっただろう。当時同級生でうわさになっている人物もおり、私の頭をよぎった。彼は、現在、普通に医師として働いている。同じような医師は他の大学にもいる。彼らとI君、T君を分けたのは偶然だ。
 ちなみに「Iさんはあまりに真面目で、すこし『鈍くさい』ので麻原も一連の事件では使わなかったみたいですよ」とも教えてくれた。教団幹部で彼が起訴されなかった理由なのだろう。このあたり、麻原(教団元代表の松本智津夫元死刑囚)は人をよく見ている。
 そして、刑事らは帰り際に「先生が無理やり連れて行かれなかった理由がよくわかります」と言った。おそらくそれは「リアリティー」だと思う。私は、受験の世界ではエリートだったかもしれないが、剣道の世界では三流だった。挫折し、コンプレックスを抱いていた。オウムのいうことは、剣の修行についてはしょせんきれいごとだった。チベット密教の権威を持ち出されても、絶対に受けいれられない話だった。
 エリートは権威に弱い。権威の名前を出されると、そのことを知らない自分の無知をさらけ出すのが恥ずかしく思い、迎合しようとする。決して「わからない」とは言わない。私を含め当時の東京大学の学生が、オウム真理教に引きずられていたのは、このような背景があるのではなかろうか。挫折を知らない、真面目で優秀な学生だからこそ、引き込まれる。
 あれから23年が経過して、事件は大きな節目を迎えた。だが、当時の受験エリートたちに欠けていたものを、今の社会は埋めることができているだろうか。ネット社会になって、ますますリアリティーがなくなっていると私は感じる。ますます、カルトへの免疫がなくなる、と危惧している。(ハイライト by Maize)



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実はオウム真理教の元幹部たちが
次々と逮捕された、
一連のオウム事件が社会を震撼させた時、
私は母や妹から、
もし私が若かったら(オウムに)
入っていたかも知れないと言われました。



が、私はそれを即座に否定したものです。


確かに正義感が強く、くそまじめ、
学生時代にはヨガも習っていました。


でも私は多分この当時
今回死刑になった麻原の弟子たちほど
純粋ではなかったし、
頭も良くなく、
エリートだなんてとんでもない、
地に足はついていたように思います。


気は小さいので、何よりも
こういう場に行くことさえ怖かったし、
何よりもどういう形であれ
組織というものが嫌いでした。


今の時代にも、オウムから分かれた
他の宗教団体に入る人は後をたたないと
言われています。


格差社会、
SNSの発達はヴァーチャル世界での
コミュニケーションやお付き合いで満足し、
現実社会では会話も要らない、
生身の人間に興味はない、
そんな若者、そんなに若くない人間が
増え続けているのが今の時代です。


村田沙耶香さんの小説
「消滅世界」のような時代は本当に来る
かも知れません。


あまり表現はあまりよくありませんが、
日本には「ばかと鋏は使いよう」
ということわざがあります。


インターネットもSNSも使いようでは
役に立つツールですが、
ネット上でのことと現実の線引きが出来ずに
混同してしまうとなかなか
目が覚めないことが多いのではないでしょうか。


コミュニケーションは基本、
相手が目の前にいて成り立つものであり、
それ以外の会話はせめて、
相手の声の聴こえる電話で交わしたい。


SNSはあくまで補助的なもの。


私はラインにもフェイスブックにも、
基本的には友人のみ、
それ以外も少なくても知り合いであるか、
現実に話したことのある人しかいません。


会ったこともない、話したこともない、
そんな相手との文字だけの会話や
コミュニケーションには全く
興味はありません。


短いテキストでは何だって言えますしね。



それにしても怖い時代になっていますよね。





















2018年7月9日月曜日

サーモンチャウダー






サーモンチャウダーを初めて食べたのは
アラスカででした。


サーモンのこういう食べ方は
初めての体験。


今も覚えています。


アンカレッジにあったチャウダーハウス
という名前の、
コリアンが経営するレストランでした。


作り方を聞いた時に教えてもらったのが、
ガーリックを使うことでした。


コリアンだからにんにくは
使いなれていますものね。



今日のサーモンチャウダー、
なかなか美味しく出来ました。


鮭の臭みを消すことを工夫しました。



まず先日、コスコで先に買ったソッカイですが、
しっぽに近い切り身をチャウダー用に
ヒマラヤ岩塩とすりおろしたガーリック
をぬって冷凍にしていました。

これがまず功を奏しました。


そのサーモンを室温で少しやわらかくして、
ラップを取って、
お皿に入れたところに
日本酒を多めにふりかけて
電子レンジでクックしちゃいます。


野菜は玉ねぎ、人参、セロリ、じゃがいも。


ル・クルーゼの鋳鉄のお鍋の中で炒めて、
そこにチキンブロスを入れて、
野菜がやわらかくなるまで煮ます。


野菜がやわらかくなったら
ポミを加えて、
そこにクック出来たサーモンを足して
少し煮たら出来上がり。



臭みも抜けて、
なかなか美味しいサーモンチャウダーが
出来上がりました。


シンプルであっさりしたお味。


暑い日でもクーラーの効いた室内で
非常に美味しくいただきました。


2018年7月3日火曜日

4キロほどスロージョグ








7月からジムのクラススケジュール
が変わって、
火曜日の夜のヨガのクラスが
なくなりました。


特に参加したくないクラスは時間
にしばられるので、
別になくてもいいのですが、
でも何か体を動かさないと。


ということで久しぶりに外を走りました。


走り始めたのは6時50分。


まだまだ昼間の日差しです。


40分は走ろうと、すぐそばの公園を
走りました。


走ったというか、スロージョグです。


なぜか距離が出ていないのですが、
40分なのでおそらく
4キロほどでしょう。


それでも1時間のハードなケリーのクラス
で消費するカロリーよりも多いのですよね。









平均心拍数もけっこう速い。


やっぱり走ると体重が減るはずです(笑)。


帰りにジムに寄って
筋膜リリースをして帰宅しました。


シンプルにキングサーモン







昨日コスコで買ったアラスカの
キングサーモン。


さっそく今日のランチに。


とりあえずスライスして軽く
塩をしたものを冷凍に。


今日の分だけ、お酒とレモンジュース
塩、黒胡椒をふりかけてしばらく置き、
軽く小麦粉をまぶしてムニエル風に
バターで焼きました。


この写真のは家人用。


なかなかのボリュームです。


付け合わせの野菜はボイルしただけ
のシンプルなもの。


素材がいいのでサーモンもシンプルに。


私は少しだけバルサミコをかけて
いただきました。


あとはオーガニックスウィートコーン
のポタージュで本日のランチとなりました。


キングサーモン、美味しいです!


2018年7月2日月曜日

キングサーモンが!








今日、コスコに行って、
念のために先日ソッカイを買った冷蔵ケース
をのぞいたら、
何とアラスカのキングサーモンが
入っていました。







でもケースの左端に1列だけ。


やっぱり今年は獲れる量が少ないのですね。


お値段も張りますが、








やっぱりキング、食べたい!


ということで2パックだけ購入。


占めて93ドル。


でもこの時期にしか入らないですもの。



アラスカに住んでいた時には
キングが特に美味しいとは
感じなかったのですが、
コスコでアラスカのワイルドサーモンを
買うようになって、
やっぱりサーモンはキングかなと。


「キング」と名がついただけあるかなあ。


コスコで見かけた女性のファッションが!








今日、コスコで見た女性のファッションが
あまりにも圧倒的で、
思わず写真を撮らせていただきました。


彼女自身はアメリカ生まれだと言って
いましたが、お国は南アフリカ。








頭に巻いた布とラップスカートは
同じアフリカンプリントの布。

この布の色といい模様が
またとてもアフリカン!








そして見てください、彼女が身につけていた
ケニアのビーズのネックレスとブレスレット!


あ〜、すごい素敵!


特にネックレス、圧巻でした。


こういうおしゃれな女性と出会うと
1日がぱっと明るくなりますよね。

2018年7月1日日曜日

今日から7月!









1年の半分が終わりました。


アメリカは今日から7月。


いよいよ2018年も後半戦です。


何とはやいことでしょうか。


夏時間のアルバカーキは日没時間はまだ
8時20分。


9時前でもまだ真っ暗にはなりません。


写真は8時半過ぎに撮りました。








ここのところ次々と問題が起こり、
やっと落ち着きましたが、
古いけれど、この4つの天窓が
何よりの魅力のアパートです。


⭐️


朝起きてコーヒーを淹れる自分に
はたと問う。


これは昨日の自分?


明日は昨日、
今日は明日、
昨日は今日で明日。


人生、これでいいのか‥‥。

レッドビーツ入りポテトサラダ








少し前までは朝のスムージーに
生のビーツも入れていましたが、
だんだんやらなくなり、
ビーツ(のお料理)自体も最近
テーブルにのっていませんでした。


家人が観ていた日本のテレビの情報番組
で紹介されていた
ビーツのポテトサラダを作ってみました。


オーガニックビーツは真空パック
になっています。

ボイルしてあるのでやわらかいです。


じゃがいもをゆでてマッシュして
マヨネーズを加え、
そこへきざんだゆで卵とレッドビーツ
をいれてあえました。


飲み物はリースリング+IDOLウォッカ
+100%ざくろジュース+ペリエ
で色的にもパーフェクトな(笑)
組み合わせ。


赤い色は血の色。
血液年齢を若く保たないとね。


ところでこのポテトサラダ、
作るのは簡単だし何てこともないですが、
なかなか美味しいです。


栄養満点で美味しかったら
言うことはありません!



筋膜リリース







月曜日から土曜日までジムでクラス。


火曜日のヨガと木曜日のSilver Sneakers以外、
月水はダンスフィット、金土はSTRONG
とケリーのクラスで、
かなりハードなものばかり。


なので最近は日曜日は筋トレとか
するのはやめて、マットをしいて、
写真のフォームローラーと
イガイガのついたゴムボールを使っての
筋膜リリース。


特にこのイガイガがつぼにほど良く効いて、
気持ちいいんですよね。


30分ほどゴロゴロしていました。